第4話 『困惑』
君に何かをしてもらおうとは思っていない。
君を国外に逃がそうと思っている。
イグナートはそうノートに書いたのだ。
ターニャは思わず混乱してしまう。
(え? 私を……逃がす? どうして?)
逃げられるなどとは微塵も思っていなかった。
もうあきらめていたのだ。
だというのに目の前の男は信じられないようなことを平気で言う。
何か裏があるのだろうとターニャは訝しんだ。
逃げられるという餌をぶら下げてターニャを意のままに使おうとしているのかもしれない。
戦時には必ずスパイ行為が横行する。
ターニャたちウリエルの女性を多く捕らえるべく暗躍していたのも、女性専用シェルターの管理役をしていた同じウリエルの女性だった。
彼女はノーザリオン側のスパイとなり、助けるふりをしてウリエルの女性たちを避難シェルターに集めて、そして一気にノーザリオン側に売ったのだ。
まさしく一網打尽だった。
そうして敵国に捕らえられたターニャは、自国の女性までもが信用することが出来ないのだと絶望した。
だからイグナートの言葉を信用することなどとても出来なかった。
ターニャは再びペンを取り、紙面に走らせる。
【私をスパイにするつもりならお断りです。あなたたちの人形にはなりません】
こんなことを書いたら殺されるかもしれない。
それは恐ろしかったが、自分たちを裏切って敵国に売ったあの女性のようにはなりたくないとターニャは心の底から思ったのだ。
それを見たイグナートは静かに頷いた。
【スパイにするつもりなどないが、信用するのも難しいだろう。とにかくここでしばらく暮らし、ゆっくり頭を整理してくれ。くれぐれも自害などするなよ。この戦争は永遠には続かない。必ず終わりが来る。その時に生きてさえいれば、また穏やかに暮らせる日が来る】
イグナートはそう書くと今度は声を出してハッキリと告げた。
「さっさと食べ終われ。終わったら食器を片付けろ」
そのままイグナートはじっとターニャを見つめ続ける。
ターニャは観念してスプーンを手に取り、ボルシチを食べ始めた。
すでに冷めかかっていたボルシチだが、それは驚くほど祖国の味と似ており、おいしかった。
食欲が無かったはずだが、ひとたび食べ始めるとターニャは止まらなくなった。
この絶望的な状況にあっても自分の体が生きたがっているのだと感じ、彼女はすべてを平らげた。
イグナートの言葉は信用できないが、一つだけ真実だと思えることがあった。
戦争はいつか終わる。
だが、その日が来るまで自分は生きていられるだろうか。
希望や正気を失わずにいられるだろうか。
ターニャにはこんな状況に陥った自分の明日が想像できなかった。
ターニャが食事を終えるのを見届けると、イグナートは彼女の食器を早々に台所に片付けた。
そして水道の蛇口を捻ると食器用洗剤を使用して自ら食器を洗い始める。
盗聴器に向けて演技をすることも忘れない。
「手際よくやれ。だが適当にはやるなよ。洗い残しがあれば尻をひっぱたくからな」
その後、イグナートは紅茶を淹れて、添え物のジャムと共にターニャに出した。
そして先ほど同様に自らが先に飲んで毒がないことを示す。
それを見たターニャもジャムを舐めて紅茶を飲んだ。
正直なところターニャは戸惑っていた。
もっと過酷な抑留生活を強いられると思っていたからだ。
これではまるで客人だ。
だがターニャは油断しなかった。
心を許せば付け込まれて洗脳されるかもしれない。
ターニャが茶を飲んでいる間、イグナートは喋りながらノートにペンで字を書き続けるという器用なことを同時進行で進めていく。
「この家を出られるのは俺が同行を許可した時だけだ。厠も風呂も申告制で、俺がすぐ傍で控えるからな。怪しい動きを見せればすぐに踏み込むぞ。寝室も含めて部屋に鍵は無い。勝手な行動は許さんからな」
【家の外は危険だから決して出てはいけない。他の兵隊は一切信用するな。厠や浴室を使う際はすまないが申告してくれ。自由に使わせていることが盗聴でバレると、癒着を疑われて憲兵が踏み込んでくる恐れがある。そうならないように気を付けて欲しい。寝室はひとつだけだ。俺は他の部屋で寝るから、君が寝室を使ってくれ。もちろん勝手に踏み込んだりはしない。ただし君自身の命が危険だと感じればその限りではないからな。くれぐれも自暴自棄にはならないでくれ】
ターニャは先ほどから厠に行きたかったが、ずっと我慢していた。
イグナートは字を書き終えると立ち上がり、廊下を進むと一つの部屋の前で立ち止まる。
そしてターニャを振り返ると冷然とした口調で言った。
「ここは俺の部屋だ。絶対に立ち入るな」
それだけ言うとイグナートは自室に入って扉を閉めるのだった。




