第3話 『筆談』
この家は盗聴されている。
俺は君に危害を加えるつもりはない。
イグナートと名乗った男が筆談用に用意したノートに書いたその言葉が何を意味するのか、ターニャにはすぐに理解が出来なかった。
(盗聴? 危害を加えないって……)
ノーザリオン兵のイグナートが自分をここに連れてきたのは、自分を性的な奉仕も含めた奴隷にするためだ。
危害を加えないわけがない。
ターニャはイグナートの言葉を信用できず、彼から目を逸らす。
するとイグナートは声を出した。
「俺はお喋りな女は嫌いだ。この家にいる間、余計な口は一切きくな。俺が許可した時以外喋ることを許さん」
硬い表情を浮かべて冷たい口調でそう言うイグナートだが、その手はスラスラと紙面にペンを走らせていた。
【この家にいる時はきちんと捕虜を演じろ。我が軍は敵だけではなく味方である我々軍人をも監視している】
書かれたその内容に目を見張るターニャはワケが分からないという怯えた表情を見せた。
イグナートが自分に何を求めようとしているのか理解が出来ないからだ。
奴隷として扱われるのも恐ろしかったが、何か得体の知れぬ策謀に巻き込まれるのも同じように恐ろしい。
(捕虜を……演じろ? この人は……一体何を考えているの? 私を何に使うつもりなの?)
追い詰められた状況で疑心暗鬼に陥るターニャを見てイグナートは小さく息を吐くと椅子から立ち上がる。
その動きにターニャは思わずビクッとした。
だがイグナートはターニャの傍から離れると、部屋の隅に置かれた金庫のカギを開けた。
そしてその中から各種の調理器具を取り出すと、それらを手に台所に立つ。
「さっさと飯を作れ。料理くらいは出来るだろう」
そう言いながらイグナートは鍋に水を入れて火をかけ、手際よく肉や野菜を切り、パンを焼いた。
イグナートの手慣れた様子にターニャは思わず目を奪われる。
ターニャの祖国であるウリエルでは調理を生業とする料理人以外の一般男性が料理をすること自体が珍しい。
だが軍人ともなれば料理くらい出来なければ作戦行動に差し障りがあるのかもしれないとターニャは思った。
「遅いぞ。もっと手際よくやれ」
時折、イグナートはそう言いながら料理を続ける。
盗聴されているというのは本当らしいとターニャは思った。
イグナートの言葉と行動が一致しないのは、盗聴器に向けて偽装をするためなのだと理解は出来る。
だがどうしてターニャに料理をさせているように偽装するようなことを彼がしているのかは理解できなかった。
ほどなくして料理の良い香りが室内に漂い始めたが、ターニャは腹は減らなかった。
空腹であるはずだが、とても何かを食べたいと思える状況ではない。
だが、イグナートがテーブルに出したのがボルシチだと分かると、ターニャは思わずその赤い色のスープから目が離せなくなった。
隣り合う国であるノーザリオンとウリエルは食べる料理の種類は多少違えど、まったく同じ料理も数多く存在する。
イグナートが作ったボルシチは、ターニャが幼い頃から食べ慣れたそれとまったく同じ見た目、同じニオイをしていた。
それがターニャに複雑な思いを抱かせる。
まるで自分の母が作ってくれたような家庭料理だが、それを作ったのは自分を捕らえている敵国の軍人なのだ。
その現実にターニャは戸惑った。
「ようやく出来たか。次からはもっと早くやれ」
そう言いながらイグナートは机の上のノートにペンを走らせた。
【毒などは入っていない。安心して食べろ】
そう言うとイグナートはボルシチにサワークリームを溶かし、自分から食べて見せた。
そして添え物のパンをボルシチに浸して食べる。
ターニャの祖国であるウリエルと唯一違うのは、この添え物のパンだ。
そのパンからはチーズの香りがする。
ウリエルではニンニクの香りがする小ぶりな丸パンがボルシチの添え物としては主流だった。
(ああ……お母さんのボルシチが食べたい)
ふいにターニャは涙ぐんだ。
どんなに望んでもそれは叶わぬ願いだからだ。
ターニャはテーブルの上のボルシチから目を逸らして俯いた。
そんなターニャの様子を見ると、イグナートはスプーンをナプキンの上に置いてペンを手に取る。
【食べないと体力が持たない。そんな気分ではないだろうが、最低限食事は摂るように】
イグナートの言葉にもターニャはどうしてもスプーンを握る気になれなかった。
食べる気力が起きないのだ。
一向に食べようとしないターニャに、イグナートは少しだけ困ったような顔をする。
不意に見せたその顔に、ターニャは初めて人間味を感じた。
この戦争を経験し、ノーザリオン兵は人ではなく残酷な悪魔だと憎んでいた。
だが今、目の前にいる男は人間に見える。
ターニャの祖国にもいた普通の男に見えた。
ターニャはスプーンではなくペンを手に取る。
不意に彼女が見せた動きにイグナートはその目に警戒の色を滲ませた。
ペンは自殺の道具にも、相手を殺す道具にもなり得る。
だがターニャは震える手でノートに字を書くだけだった。
【私の国の女性たちは今この瞬間も、あなたたちの手でひどい目に遭わされているはずです。私だけ助けるなんて信用できません。あなたは私に何をさせようとしているのですか?】
字を書き終えたターニャはペンをテーブルに置く。
彼女の字を見たイグナートはそれを読み終えると声を発する。
「残さずに食べろ。体力が無ければ奉仕も出来んだろう。余計な口はきかず、ひたすら食べることだけに集中しろ」
そう言いながらイグナートもペンを手に取った。
【驚いて声を出さないように。俺は君に何かをしてもらおうとは思っていない。君を国外に逃がそうと思っている】
その言葉にターニャは驚いて息を飲み、イグナートの顔を初めてまっすぐ見るのだった。




