第9話 『訪問者』
朝食後、すぐに玄関の扉をノックする音が鳴り響いた。
イグナートは筆談用のノートを本棚の後ろに隠すと玄関に向かう。
一方のターニャは玄関からは死角になる台所に向かうと、壁のフックにかけられていたエプロンを手に取った。
つい先ほどまでイグナートが使っていたそれを身に着けると、ターニャはスポンジに洗剤を染み込ませて水で濡らし、皿を洗い始める。
玄関からはイグナートの声が聞こえてきた。
「これはスレスキン中尉殿。配給班にご同行とは……何事ですかな?」
スレスキンと呼ばれた男のしゃがれた声が聞こえてくる。
「俺が同行するということがどういうことか分かっているだろう。クロチコフ少尉。視察だ。兵たちが女たちと仲良くしているか、あるいは仲良くし過ぎていないか。この目で確かねばならん。悪いが上がらせてもらうぞ」
その声にターニャは緊張した。
別のノーザリオン兵が家に入ってくる。
しかも中尉ということはイグナートの上官だ。
ターニャは顔を強張らせながら俯きがちに食器洗いを続ける。
居間に入ってきたスレスキンは、ターニャの姿を見ると足を止めた。
「ほう。これが少尉の妻か。結構結構。おい、顔を上げろ」
スレスキンにそう命じられ、ターニャは思わずビクッと肩を震わせた。
そして食器を洗う手を止めてエプロンで濡れた手を拭き、スレスキンに目を向けて一礼する。
スレスキンは口ひげをたくわえた中年の男で、イグナートよりだいぶ背の低い小男だった。
「おまえ。名は?」
「タ、ターニャと申します」
強張った表情でそう名乗るターニャを見ると、スレスキンは口の端を歪めて卑しい笑みを浮かべる。
「少尉にしっかり奉仕しているだろうな?」
「は、はい。クロチコフ少尉にお仕えさせていただいております」
そう言うターニャにスレスキンはニヤリとする。
「ほう。夜のお仕えもしたのか? ゆうべは少尉を存分に楽しませたということだな?」
ターニャは言葉を失ってしまう。
男性からそのような物言いをされたことがないので、心身が凍り付いてしまい、ターニャは何も言うことが出来ない。
スレスキンはそんなターニャをじっと見ると彼女に歩み寄っていく。
「どうした? 俺は質問をしているんだぞ? もしかして言葉に出来ないほど破廉恥な行為をしていたのか? それはすごい。詳しく教えてくれ。何ならこの俺にも……」
スレスキンがターニャに近付いてそう言いかけたその時だった。
イグナートがスレスキンに声をかけた。
「そう言えば中尉殿。中尉殿の奥様とお嬢様に良い贈り物を見つけました。ぜひ中尉殿にお渡しせねばと思っておりまして」
イグナートのその言葉にスレスキンは思わず足を止め、ほんの一瞬だけ迷惑そうな顔を見せる。
しかしイグナートは構うことなく、本棚に置いてある高価そうな桐の箱を2つ手に取った。
それをスレスキンに渡す。
スレスキンはその箱を開けてその中身に大きく目を見開いた。
「これは……何とも豪奢だな」
中に入っていたのは純金とダイヤをあしらったネックレスだった。
イグナートはスレスキンに耳打ちする。
「奥様もお嬢様も中尉殿が長らく戻っていらっしゃらないので、さぞかし寂しがっておられることでしょう」
「まあ……そうであろうな」
「中尉殿の戦地でのご武勇をお聞かせすると共にこうした贈り物をお贈りすれば、奥様もお嬢様も大層喜ばれるでしょうな。中尉殿は実にご家族思いです」
妻と娘の話をされてスレスキンは居心地が悪そうな表情をしつつも、桐の箱2つを受け取った。
「少尉。そなたの厚意と忠義に感謝しよう。おい。俺の兵舎に運んでおけ。くれぐれも他の者に見られるなよ」
そう言って部下たちに桐の箱を押し付けるとスレスキンはすっかり興を削がれたという顔でイグナートに対し居丈高に言った。
「少尉。邪魔をしたな。君も本国に帰ったら早く家族を持つといい。いつまでも独り身では本当に責任を背負う男にはなれんぞ」
「はっ。肝に銘じておきます。中尉殿」
そう言って背すじを伸ばし敬礼するイグナートにスレスキンはふむと頷き、ターニャをチラリと見やる。
「それから少尉。妻の教育を怠らぬようにな。こいつらは我がノーザリオンの子を産む貴重な母体だ。しっかり従順な雌犬に調教するのだ」
それだけ言うとスレスキンは部下たちを引き連れて部屋から出て行くのだった。




