第10話 『イグナートという男』
スレスキンが部下たちを引き連れて家から出て行った後すぐに、ターニャは込み上げる嫌悪感を吐き出すように深く息をついた。
胸がムカムカして皿を割ってしまいそうになる。
(私たちの国に踏み込んできて、男たちを殺し、女たちは自分たちの子を産む道具にしようとしている……人間じゃない。悪魔だわ)
ターニャは怒りを鎮めるために食器洗いに集中する。
そして全ての食器を洗い終えてエプロンで手を拭き、ふと顔を上げるとイグナートが本棚の裏からノートを取り出していた。
そして屑入れの上で埃を落とし、ノートを開くとスラスラとペンで字を書いていく。
書き終えるとそれをターニャに見せた。
【気分を害しただろう。すまなかったな。よく耐えてくれた。まさかスレスキン中尉が来るとは俺も思わなかった】
そんなイグナートの表情はいつもと変わらなかったが、彼の言葉にターニャの怒りは少しばかり和らぐ。
スレスキンがターニャに近付いてきた時のことを思い返すと体が震えてしまう。
咄嗟にイグナートが助け舟を出してくれなかったら、どうなっていたことか。
そう考えるだけで自分が地獄のような場所にいることをあらためて実感し、ターニャは暗澹たる気持ちに沈んでしまう。
彼女は悄然とした顔でイグナートにペコリと頭を下げるとテーブルに着いた。
そしてイグナートからペンを借りるとノートに字を書いていく。
【助けていただいて、ありがとうございます】
それを見たイグナートはペンを受け取った。
【中尉はあれでも祖国では妻と娘を大切にしている。だが戦場では人の本質はいとも容易くねじ曲がってしまうのだ。あるいは元々隠れていた本質が表に出ただけかもしれないが】
野蛮な態度でターニャに近付いてきたスレスキンが、イグナートから妻や娘の話題を出されるとひどくバツの悪そうな顔をしていた。
あのような男でも国に帰れば夫であり父として家族に接しているのだろう。
そう思うとターニャは再び怒りが甦ってくる。
他国ならば蹂躙して良いというのか。
他国の女ならばその尊厳を踏みにじっていいというのか。
自分が妻と娘を大事にしているのならば、ウリエルの女とて誰かの大切な妻であったり娘であったりすると、どうして想像が及ばないのか。
そんな怒りを覚えると同時にターニャは恐ろしくなる。
戦争が人間の暴力性を増し、その人間性の本質を醜く歪めてしまうのならば、目の前にいるイグナートもそのように変わってしまうことがあるのではないか。
そんなことを思うと恐ろしくてイグナートの顔を見られなくなる。
先ほどスレスキンの魔の手から自分を助けてくれたのが善意ではなく、ターニャの身柄の所有欲からだとしたら……。
そんな思いに怯えるターニャをよそに、イグナートは字を書き続ける。
【俺が君を国外に逃がそうと思ったのは、人間性を失いたくないからだ。戦争で醜く歪んだ悪魔にはなりたくない】
その言葉にターニャはハッとして顔を上げた。
イグナートはペンをテーブルに置くと、まっすぐにターニャを見つめている。
その目には真摯な光が宿っていた。
ターニャは思わず紙面の字を見つめる。
整然とした彼の字には嘘はないように思える。
(この人は……さっきの男みたいになりたくなくて……それで私を救おうと? でも……でも何故私なの? たまたま目に止まったから?)
自国が戦争を始めれば、その国の兵隊は国を守るために戦場に立たねばならない。
ノーザリオンでは従来の軍所属の兵以外にも18〜40歳の成人男性を広く徴兵しているため、戦いたくはないけれどやむなく参加している兵士も少なくないだろう。
今のところイグナートには野蛮なところは見られない。
ターニャはペンを手に取った。
【少尉は元々は何をされていた方なのですか?】
【私は大学の准教授だった。機械工学を教えていたんだ。その経歴に目をつけられて、少尉待遇で兵役に駆り出された。一部の兵士たちにはインテリ野郎と陰口を叩かれているよ】
ターニャは目を見張った。
イグナートの振る舞いや物言いには知性的なものを感じていたが、教育に携わる人間だったのだ。
盗聴器向けに横柄な物言いをしている時ですら彼から野蛮さを感じないのは、そういう職業に就いていたからなのだと納得した。
もちろんターニャはその話をすべて信じるわけではない。
イグナートが相手の警戒心を解き、自分を信じ込ませようとしているのかもしれないからだ。
ターニャはペンを手に取った。
【なぜ私なのでしょうか。なぜ私を逃がそうとするのですか?】
そう書くとターニャはじっとイグナートの目を見つめてペンを彼に手渡した。
イグナートはそれを受け取りながら静かに息をつく。
【偶然、俺の目に入ったのが君だっただけだ。仮に君ではなく他の誰かだったとしても同じようにしただろう】
【そうですか。では私以外の女性も共に逃がすことは出来ますか?】
【それは出来ない。これは俺の個人的な行動だからだ。捕虜を逃がすことを他の兵には一切漏らしていない。他人の耳に入れば俺は軍規違反で逮捕・粛清されるだろう】
【そもそも個人でそんなことが出来るものなのですか?】
ターニャは訝しむ。
捕虜を秘密裏に国外に逃がす。
一将校に過ぎない、それも少尉程度にそんな大それた行動をすることが出来るのか疑わしかった。
だがイグナートは平然と頷く。
【俺ならば可能だ。だが詳しいことは今は言えない。君も知らない方がいい】
それだけ書くとイグナートはノートを閉じて立ち上がる。
「外出の支度をしろ。不足物資の調達に行くぞ。グズグズするな。おまえは荷物持ちだ」
ターニャは驚いて目を見開いた。
このままずっと家の中に閉じ込められるものだと思っていたので、外に出られることは意外だった。
「行くぞ。逃げようなどと思うなよ。下手な動きを見せれば即時銃殺だ」
そう言うイグナートに連れられてカモミールの花瓶の横を通り過ぎ、ターニャは外に出るのだった。




