第23話 『感謝と祈り』
「結局、あなたにはその後、会えずじまい。あの市場での喧嘩騒ぎの時が最後になるとは思いもしなかったわ」
82歳となったターニャは60年以上も前の記憶を思い返し、しみじみとそう言った。
イグナートやマイヤたちのおかげで、戦火に見舞われていた祖国ウリエルから脱出したのはもう遠い昔のことだ。
あの後、ダビアンに渡ったターニャは、イグナートの義兄であるコーネルの経営する会社で1年ほど働いた。
その間、イグナートからの連絡は一切なかった。
反撃に出たウリエルとノーザリオンの戦いが激化し、戦地であるウリエルと他国との行き来や通信が困難になったせいもあるだろう。
若きターニャはイグナートへの感謝の気持ちを手紙にしたためたが、それを出すことはなかった。
そんな手紙を迂闊に出して、それがノーザリオン軍の検閲に引っかかり、捕虜を逃したと軍に知られれば、イグナートの立場は危うくなる。
そして戦火はウリエルのみならず、ダビアンにも迫ってきたのだ。
コーネルの会社のあるダビアン北部のウリエルとの国境沿いには、多くのノーザリオンのスパイが出入りしていると噂されていた。
実際にダビアンの要人が暗殺されたり、市民が誘拐されたりといった事件が相次いだ。
ターニャがウリエルからの避難民だと知られると、そうしたスパイの手で彼女がウリエルに連れ戻されてしまうかもしれない。
それを危惧したコーネルとマイヤはターニャを別の場所に移すことを提案してきたのだ。
行き先はダビアン南部ののどかな高原にある修道院だった。
そこは夫妻の経営する会社の取引先であり、元々ノーザリオン出身の院長はマイヤと旧知の仲だった。
ターニャは夫妻に礼を言い、同僚のアルミラたちと別れを惜しみながら修道院へと向かった。
そこからはしばらく平和な日々が続いたのだ。
しかしターニャが修道院で暮らし始めて1年ほどが経過した時、ウリエルとの癒着を疑われたダビアンがノーザリオンからの侵攻を受けたのだ。
戦火は拡大し、その頃からターニャはマイヤたちとの連絡が一切取れなくなってしまった。
修道院からもそれまで日用品などを発注していたのだが、コーネルの会社と連絡がつかなくなったのだ。
マイヤたちのいるダビアン北部は激しい戦禍に見舞われ、南部から北部へと向かう道は分断され容易に移動できなくなってしまった。
結局、戦争が終結するのにそれから3年の月日を要したのだ。
長引く戦禍にノーザリオン、ウリエル、ダビアンの3国は疲弊し、周辺国の仲介もあってようやく3国の停戦合意が交わされ、戦争は終結した。
ほどなくしてノーザリオン軍は自国へと引き上げて行ったのだ。
これに伴い、隣国各地に避難していた難民たちに対する帰国支援が各地で始まった。
これを知ったターニャは修道院を出てまずはコーネル夫妻の会社のあった街へと移動した。
だが街は焼かれて瓦礫の残骸ばかりとなり、会社の建物も跡形もなくなっていた。
ターニャはその街に1週間ほど留まりマイヤたちを探し続けたが、結局は見つからなかったのだ。
街に残っている人たちにコーネル夫妻や彼の会社の社員たちがどこに行ったのかを聞いても、誰も知る者はいなかった。
それくらい戦後の混乱はひどく、家族と離れ離れになったまま再会を果たせない人が大勢いた。
そして1週間経ったその日にターニャは探すのをあきらめ、壊れた社屋に自分の書き置きを残して街を後にしたのだ。
書き置きには自分が無事に生きていること、修道院を離れて祖国ウリエルに戻ること、生活が落ち着いたらまたここを訪れる旨を御礼と共に書いて、風に飛ばされぬよう瓦礫の石の下に置いたのだった。
「でも……結局人って自分の生活に戻るとそれが手一杯になっちゃうのよね」
ターニャは墓石の前で風に揺れるカモミールの花を見つめながら寂しげにそう言った。
ウリエルに戻った彼女は、親戚の住む街を訪れた。
そこで無事に生き延びた従姉妹の家族と再会し、ターニャは自身の生活の基盤を作るまでそこでお世話になったのだ。
自分の住んでいた家にはすぐに戻る気にはなれなかった。
まだノーザリオン兵がそこにいるような気がして恐ろしかったからだ。
新たな暮らしを始めてすぐに、兵役に取られていた兄弟たちが戦死していたことをターニャは知った。
それから必死に働き、勤め先で知り合った気の良い男と結婚して子を生み、やがて孫も生まれた。
そうして暮らすうちに次第に戦地で起きたこともイグナートのことも思い出さない日々が積み重なっていった。
やがて長い時間が過ぎ去っていき、ターニャは年を取った。
子や孫たちは立派に成長し、夫には先立たれ、自分の人生も残りわずかと感じたターニャは……ふと過去の自分を振り返ったのだ。
お世話になった人たちにお礼を言えていないことに悔いが残った。
居てもたってもいられなくなり、子供たちの反対を押し切って彼女は1人で旅に出たのだ。
かつての恩人たちに礼を言うための旅に。
ターニャは目の前の墓石に刻まれたイグナートの名前を見つめた。
「少尉……いえ、イグナートさん。あなたのおかげでこの年齢まで人生を全うすることが出来ました。本当にありがとうございます。あの悲惨な戦争の中であなたが人としての正しさや優しさを見失わないようにしていたこと。その尊さと勇気を私は子や孫たちに伝えましたよ。願わくば……あなたにも長い人生を生きてほしかった。次は……お互い平和な時代と国に生まれ変わりたいですね」
そう言うとターニャは墓石に手を触れ、もう一度イグナートの冥福を祈ってから立ち上がった。
その手にはもう二束、カモミールの花束が残っている。
ターニャにはこの墓地にもう2つ、参りたい墓があるのだ。




