第22話 『国境』
運河を進む船上。
その甲板には2人の女性が立って、船の進む先を見つめながら話をしていた。
運河の上を吹く風が2人の髪を揺らしている。
「そう……イグナートがそんなことを」
マイヤはターニャの話を聞き、安堵したように二度三度と頷いた。
船上で食事を済ませてから、マイヤはターニャとこうして2人で話すために甲板に誘ったのだ。
他の者がいてはターニャも話し難いだろうというマイヤの配慮だった。
そこでターニャはイグナートの姉であるマイヤに全てを話したのだ。
捕虜になってからイグナートと過ごした6日間のことを。
包み隠すことなく、ありのまま。
今この時になってターニャは後悔を覚えている。
「私は……すくに少尉を信じることは出来ませんでした。何らかの企みのために私を助けるという甘言を言っているのだと疑っていました。いえ……結局最後まで信じられなかったのかもしれません。あんなに良くして下さったのに」
「仕方ないわ。あなたにとっては敵兵だもの。私があなたの立場でも同じように信じられなかったと思う」
気遣わしげにそう言うマイヤはターニャの手を優しく握った。
「でも良かった。弟があの優しかったイグナートのままでいてくれて。もし彼があなたにひどいことをしていたら……そう考えるだけで震えてしまうわ」
「少尉は……恐れていらっしゃいました。周りの人々が戦争によってどんどん醜く変わっていってしまうのを見て、自分もそうなってしまうのではないかと。少尉がお優しいままでいらっしゃったのは、自分を見失わない強さがあったからだと、今は思います」
ターニャの言葉にマイヤは悲しげな色をその目に浮かべた。
「国から強いられた軍人としての立場があるから、戦争に加担せざるを得なかった。この侵略戦争に参加することはイグナートにとっては本当に不本意だったと思う。ずっと苦しみ続けていたのでしょうね。そんな時に……あなたと出会った。妹に……リーリヤによく似たあなたに」
マイヤは甲板上に持ってきていた鞄の中から写真立てを取り出し、それをターニャに見せる。
そこには若き日のマイヤやイグナート、両親、そして在りし日のリーリヤが写っていた。
見れば見るほど彼女は自分に似ていると、ターニャはそう思う。
「あなたに会った時にイグナートは決めたのでしょうね。あなたを助けると。リーリヤが亡くなった時、もちろん私も悲しんだけれどイグナートは私よりもずっと強く後悔して引きずっていたわ」
「後悔?」
「ええ。リーリヤが亡くなる時、私はまだ結婚前でノーザリオンにいたから、妹の傍にいることが出来た。でもイグナートはほとんどリーリヤと共に過ごせなかったの」
そう言うとマイヤは当時を思い出し、辛そうに目を伏せた。
「リーリヤが亡くなる数ヵ月前から、イグナートは自身が勤務する大学の指示で、軍の機械工作部隊に出向して仕事をしていたの。大学が国から命じられた仕事だったからイグナートも断ることが出来なくて、かなり忙しくしていたわ。そのせいで日に日に弱っていくリーリヤの傍にいることも最期を看取ることも出来ず、イグナートはそれを激しく後悔していたわ」
「そうだったんですか……」
「だから……彼は危険を承知であなたを救おうと思ったのでしょうね。妹は救えなかった。せめてあなたを救いたいと。もちろんそれはイグナートの勝手な思いだし、彼自身がおそらく自分のために行ったことだから。だからイグナートのことであなたが気に病むことはないのよ」
「そうだとしても……それで私はこうして救われた。少尉への感謝は一生変わりません」
そう言うとターニャは胸の前で両手を組んで祈る。
「一刻も早くこの戦争が終わって欲しい。ウリエルの国民にこれ以上、犠牲になって欲しくない。そして……少尉に……イグナートさんに苦しみから解放されてもらいたいんです」
それはターニャの心からの祈りだった。
マイヤは彼女の言葉に涙ぐんで頷く。
「そうね。私もそう思う。この思いを抱く人が1人でも多くいてくれることを願うわ。誰だって互いに苦しめ合うより、穏やかで安心できる暮らしを欲するはずだもの」
「はい」
そう言い合うと2人は、しばし声を発さずに前方を見つめた。
運河の関所となる次の港が遠方に見え始めていた。
マイヤが前方を指差す。
「見て。国境よ。ダビアンに入るわ。もう大丈夫。あなたは安全よ」
そう言うマイヤにターニャは静かに頷き、そして言った。
「いつか……いつかまたイグナートさんとお会いして、直接お礼を言いたいです」
「ええ。ぜひそうしてちょうだい。きっと弟は無事に戻って来るから」
そう言い合い、2人の女たちは微笑み合うのだった。
そして……それから60年以上の月日が経過した。




