第17話 『逃避行』
人波の中を縫うように少しずつ、だが着実に一歩ずつ進む。
イグナートが騒ぎを起こしてくれていたおかげで、ターニャは誰に注目されることもなく市場の中を歩き続けた。
この後、イグナートがどうなるかターニャには分からない。
(少尉……懲罰を受けるんだろうな)
ターニャは自分の胸に彼を心配する気持ちがあることに驚いた。
だが彼は自分を逃すために行動しているのだ。
その行為を無にしないためにも自分は逃げることに集中しなければならない。
ターニャは人混みの中を懸命に歩き続けた。
やがて……市場の中心部から離れるほどに人の数は減っていき、歩きやすくなってきた。
そしてあの薬売りの露店が見えてくる。
例の老女店主が露店の脇に置かれた大きな木箱に忙しそうに何かを詰めていた。
老女が台に乗って物資を詰め込んでいるそれは1.5メートル四方程はある大きな木箱だ。
ダビアンに輸出するための製品だとイグナートからは聞いている。
ターニャは店が見える位置にある建物の物陰に隠れて機会を窺った。
あの店主に知られることなく、あの木箱の中に忍び込むのだ。
あの木箱は1時間ほどの陸上輸送を経て、運河に停泊しているダビアンの商船に積み込まれる予定だ。
そこでイグナートの協力者という者が木箱を開封してくれ、中に隠れていたターニャをダビアンまで連れて行ってくれる。
それがイグナートから聞かされた脱出計画だった。
ターニャは緊張で体が強張るのを感じ、その場で軽く足踏みをする。
そうしなければいざという時に足が動かなくなるような気がして怖かった。
(怖い……失敗したらどうしよう……)
薬売りの老女はまだ木箱の傍から動かない。
何かを待っているようだ。
ターニャは祈るような気持ちでその時が来るのを待つ。
5分経ち、10分が経とうとした頃だった。
街の外から来たと思しき大きなトラックが薬売りの露店から少し離れた場所に停車したのだ。
すると近隣で商売をしている者たちがこぞってそのトラックに向かって行くのが見えた。
どうやらあのトラックは仕入れ物資を運んできた車両のようで、薬売りの老女も店を離れてそこに向かう。
それを見たターニャは反射的に動いていた。
人の流れに紛れるようにして通りを進むと、薬売りの露店のすぐ近くまで歩み寄る。
そこからターニャは露店のすぐ裏手に建ち並ぶ住居の間にある細い路地にスッと入った。
そして建物の陰から通りの様子を窺う。
目の前に見える木箱まではほんの数メートルほどだ。
近隣の商人たちがあらかたトラックに群がり、運び出される自分の荷物を受け取るのに夢中になっているのを見たターニャは、意を決して路地から躍り出る。
そして無人となった薬売りの露店のすぐ脇に置かれた木箱の横の台に足をかけると、思い切って木箱の中に飛び込んだ。
木箱の中には脱脂綿の素材になる綿毛がぎっしり詰め込まれている。
ウリエルは綿の一大産地であり、近隣の他国に綿を輸出しているのだ。
そしてこの日、薬売りの老女が綿をダビアンに輸出するというその情報もイグナートから事前に聞いていた。
他ならぬイグナート自身が先日ここを訪れた時に、ダビアンへの綿毛輸出を依頼したからだ。
(どうか見つかりませんように)
ターニャはそう祈りながら必死に綿毛の中に頭まで潜り込む。
もちろん呼吸が出来るように顔の周りの隙間を確保しておくことも忘れない。
それから数分で商人たちがトラックから戻ってくる声と足音が聞こえてきた。
輸入品の物資をすべて配り終えたようだ。
ここから今度は空になったトラックに輸出品を積載していく作業が始まる。
ターニャが綿毛の中で息を潜めていると、頭上からの明かりが途絶えて暗くなった。
木箱に蓋がされたのだ。
そして釘が打たれる音が聞こえ、ほどなくして木箱が持ち上げられた。
おそらくフォークリフトによってトラックに積載されるところだろう。
ターニャは一層の緊張が体を包み込むのを感じた。
賽は投げられたのだ。
もう後戻りは出来ない。
自分の人生を守るために自らの命を懸けるのだ。
後はこの計画の成功を祈るのみだった。
そして木箱は無事トラックに積載されたようで、ほどなくしてエンジン音が響いて振動が伝わって来る。
移動が始まった。
緊張で震える自分の体を両手で抱きすくめながら、ターニャは綿毛の中で丸くなって縮こまる。
光の入らない暗闇でそうしていると、母の胎内にいるような気持ちになった。
(お母さん……どうか私を守って)
すでにこの世にいない母にそう祈ると、それからターニャは恐怖を紛らわせるように色々なことを考えた。
亡き両親のこと、行方知れずの兄弟のこと、生きているか死んでいるか分からないかつての友人たちのこと、そして……イグナートのことを。
イグナートは喧嘩騒ぎを起こすため、おそらく自分は懲罰を受けるだろうと言っていた。
丸一日ほど懲罰房に入れられると彼は事前に予想していた。
だが、それすらもイグナートの計算の内だった。
彼が罰を受け終えて懲罰房から出て家に戻ったら、いつの間にかターニャがいなくなっていた。
そういう筋書きだ。
そこから軍によるターニャの捜索が始まるかもしれない。
だがこの街から隣国ダビアンへの国境までは近く、半日もあれば移動できる。
捜索開始の時点ではすでにターニャは国境を越えてダビアンにいるのだ。
あるいはこれは希望的観測だが、捕虜の女1人の行方を捜すために、わざわざ捜索隊など組まない可能性もある。
今は戦時であり、ここは敵国だ。
ウリエル軍の都市奪還作戦に備えて兵力を街に集中させておきたいはずだ。
捕虜の取り扱い不手際ということでイグナートを処罰するだけに留める可能性もある。
(その場合……少尉はどうなってしまうのだろう)
自分が助かることは嬉しい。
だが、そのせいでイグナートが厳しい処分を受けてしまうのであれば心苦しかった。
たった数日共に過ごしただけだというのに、敵兵であるイグナートの身を案じるほどにターニャにとって彼の存在が大きくなっている。
戦争の捕虜になるという極限の状態で過ごしたこの数日は、ターニャの心身に大きな衝撃を与えていた。
そうした中でイグナートが自分を助けようと動いてくれたことを今では感謝している。
昨日まで疑っていたのだ。
何らかの思惑があり、ターニャを助けるフリをしているのではないかと。
だが、今ではターニャの胸の内から彼を疑う気持ちはほとんど消えていた。
(今は……とにかく無事にこの国を離れてダビアンに辿り着くことだけを考えよう。無事に助かったら、いつか必ず少尉に恩返しをしよう)
そんなことを考えているといつの間にか時間が経過していたようで、トラックが停車した。
そしてトラックの荷台に人が上がってくる足音と声が聞こえてくる。
思わずターニャは身を固くした。
決して声を出さぬよう口を手で押さえ、じっと息を潜める。
色々な荷が開封される音が響き、その音が次第に迫ってくるとターニャは心臓が跳ね上がりそうになるのを感じた。
(ど、とうしよう……息が……苦しい)
緊張と恐怖で胸の鼓動が激しくなり、ターニャは息苦しさに肩を震わせる。
そこで男の声が響いた。
「おい。全部開けろ。目録の通りになっているか確認だ。密輸は許さんぞ」
その声はターニャの全身を恐怖で硬直させるのだった。




