第16話 『運命の朝』
運命の朝は曇り空だった。
ターニャがイグナートと共に暮らすようになってから5日が過ぎた。
6日目。
ついに逃亡計画を決行する日が来たのだ。
そしてこの日はノーザリオン軍が主催するこの街の祭りの日だった。
兵士らが朝から浮き足立っている様子が、近隣から聞こえる声や物音で伝わってくる。
起床してイグナートと共に朝食を摂るターニャは緊張からか、固い表情をしていた。
それを見たイグナートはノートにペンを走らせる。
【落ち着いていこう。そんなに困難なことじゃない。俺の言う通りに動けば必ず上手くいく】
イグナートの言葉にターニャは黙って頷いた。
イグナートは立ち上がり、ノートを手に台所へと向かう。
そこでマッチを擦り、ノートに火をつけて燃やした。
この先もう筆談は不要だということだ。
証拠になるような物を残すべきではない。
「祭りは10時からだ。俺は出かけてくるぞ。おまえはこの家から一歩も出るな。おかしな真似をしたら即銃殺だ」
「は、はい……」
盗聴器向けにそうしたやり取りを終えると、2人は出かける準備を粛々と始める。
ターニャは最後にカモミールの花の飾られた花瓶の水を取り替えると、その白い花びらに指で触れた。
この家での短い暮らしの中で、この花には随分と慰められた。
ターニャは胸の内で花への礼を言う。
(ありがとう。元気でね)
それから外套を羽織り、頭巾を被った。
そしてイグナートは棚から1本の蒸留酒の酒瓶を取り出して開封すると、それを瓶から直接グビグビと飲んだ。
全て事前の打ち合わせ通りだが、そんな酒の飲み方をする者を見たことがないのでターニャは思わず驚いてしまう。
だがイグナートは大丈夫だというように頷いて見せた。
それからイグナートは庭に出る窓にかけられた厳重な錠前を鍵で開錠し、窓を開けてターニャを庭に出す。
そして窓を閉めると再び施錠した。
そして窓越しにターニャをじっと見つめると一度だけ頷き、イグナートは酒瓶を手に玄関へと向かって行った。
その背中をやはり窓越しに見送るとターニャは自分も行動を起こす。
庭で1人になったターニャは生垣の一部に空けられている隙間から身を屈めて外に這い出した。
庭の外は農道になっており、他の家の生垣がそこかしこにあるため、見通しは悪い。
玄関から出たイグナートとは別に庭から外に出たのは、2人で一緒に玄関から出るところを人に見られないようにするためだ。
ターニャは事前に受けた指示通りの道のりを進む。
向かう先は市場だ。
人の少ない場所を歩くと目立つため、逆に人出の多い場所を選んで進むのだ。
市場ではすでに大勢の兵士たちが繰り出していて、祭りの雰囲気を楽しんでいた。
カードゲームの臨時会場が設営され、ディーラー役の兵士を相手に大勢の兵士らがカードゲームによる賭け事に興じ始めている。
とにかく人の数が多く、通りを歩くのにも苦労しながらターニャは頭巾と外套で顔と体を隠しながら進み続けた。
時折、他者の視線を感じるものの、声をかけられることはなかった。
だが……ようやく市場の中心部辺りまで来たところで、すれ違う大柄な兵士と肩がぶつかってターニャは思わずよろけてしまう。
声を出してはいけない。
その思いから必死に悲鳴を上げぬよう口を引き結んで堪え、倒れぬよう足を踏ん張った。
ぶつかってきた兵士はわずかに怒気を孕んだ声で言う。
「おい。気を付けろ」
そう言う兵士にターニャはペコリと頭を下げて、そのまま歩き去ろうと兵士の横をすり抜けた。
だが……。
「ちょっと待て」
ターニャは肩を掴まれて思わずビクッと立ち止まるが、決して振り返らなかった。
「ちゃんと謝れ。この野郎。そんな頭巾なんか被ってるから前が見えねえんだよ」
そう言うと兵士はターニャの頭巾に手をかけた。
ターニャは慌てて逃げ出そうとする。
その時だった。
「スチェパン! この野郎!」
男の怒声が市場に響き渡り、どよめきが巻き起こる。
その声はイグナートのものだった。
「ふざけやがって! おまえの抱いた女なんか抱けるか! 気色悪いんだよ! 豚野郎が!」
「何だと? イグナートてめえ! 酔っぱらってんのか!」
間違いない。
イグナートとスチェパンが言い争っているのだ。
周囲の兵士たちが何だ何だと声のする方に注目して集まっていく。
ターニャの頭巾に手をかけた大柄な兵士も思わずイグナートらが言い争う方に気を取られていた。
(今だ!)
その隙にターニャは駆け出し、人ごみの中へ紛れるように逃げた。
「あっ! この野郎! 待ちやがれ!」
後ろから兵士の声はするが、体の大きなその兵士は周囲に群がってくる他の兵士らに邪魔されてターニャを追うことが出来ない。
ターニャは必死に人波をかいくぐりながら目的の場所へと向かって行く。
そして彼女は人並の隙間から見た。
イグナートとスチェパンが掴み合いをしているのを。
「スチェパン。おまえ程度に中尉などに荷が重いぞ! 才覚も無いくせに!」
「うるせえ! イグナート! 戦場でロクに銃も撃てない半端者が!」
イグナートとスチェパンは激しく掴み合いをしている。
あれではターニャがせっかく直した軍服もまた破れてしまうだろう。
しかしあれも全てイグナートが事前に決めた芝居だ。
もちろん何も知らないスチェパンはイグナートに絡まれて怒り心頭の様子で応酬していた。
そしてイグナートの目論見通り、市場にいる兵士たちは皆、突如として始まった喧嘩を面白がるように囃し立てながらそちらに注目している。
中にはどちらが喧嘩に勝つかを賭け始める者までいた。
(少尉……)
人混みの隙間からほんの一瞬、イグナートの姿が見えた。
スチェパンと掴み合いをしながら、イグナートが確かにこちらを見たのだ。
これだけ多くの人でごった返す中、イグナートがターニャを認識できたのかは分からない。
だがターニャはイグナートと目が合ったような気がした。
ほんの一瞬だが、イグナートが優しい目をしたような気がしたからだ。
彼は自分の無事を祈ってくれている。
そう感じたターニャもわずかに微笑む。
イグナートへの感謝と祈りを込めて。
(あなたもどうかご無事で。クロチコフ少尉)
それが……ターニャがイグナートの姿を見た最後だった。




