第15話 『裁縫箱』
「俺も……敵兵をこの手にかけた。自分で撃ち殺したウリエル兵の無残な遺体を見て恐ろしくなったよ。取り返しのつかないことをしてしまったんだと。俺が殺した相手だって、かつては望まれて生まれた赤ん坊であり両親に慈しまれただろうに。今も国で帰りを待つ家族がいるだろうに。俺はその人たちからその兵士を奪ったんだ。この戦争に加担した悪魔なんだよ。この俺も」
苦渋に満ちた表情でイグナートはそう言うが、自ら望んで戦争に加わる者などいるのだろうか。
中にはそういう者もいるのかもしれない。
だが目の前にいるイグナートはそうではないとターニャには思えた。
だからこそ彼女は言った。
「少尉は……踏みとどまっていると思います。悪魔に乗り移られてなどいないように……私には見えます」
ターニャの言葉にイグナートはわずかに肩を震わせた。
そしてゆっくりと静かに深い息を吐いていく。
まるで自分を落ち着かせようとしているかのように。
「さっきも言ったが、君を救いたいと思ったのは俺自身のためだ。このひどい戦争で敵兵の命を奪った俺も、誰かの命を救ったのだと思いたいがためのひどく偽善的で利己的な理由なんだ。だから君は遠慮せずにそれに乗っかってくれ。こんなことをしたからといって戦争に加担した俺の罪が許されるなどとは思っていない。だが、それで君の命が助かるのなら……俺のこの馬鹿げた行為にも意味がある」
ターニャの胸の内に渦巻くイグナートへの疑念は完全に晴れることはない。
彼の言葉が真実であるという証拠はどこにもないからだ。
だが、彼が悪魔などではなく人間なのだということはハッキリと理解した。
ターニャはイグナートがその手に握るロケットペンダントを見つめながら口を開く。
「先ほどスチェパン少尉に言っていた家族に恥ずかしくないのかという言葉は……クロチコフ少尉ご自身にも向けられた言葉だったのですね」
「……俺にはもう祖国に身寄りはいない。両親は随分前に他界し、妹にも先立たれた。姉が1人いるが数年前に他国に嫁いでいてな。それでも……そんな皆に恥ずかしくない生き方をしたいんだ。この戦時下にあってもな」
だからこの人は自身を律し、戦争への絶望感や恐怖心に決して負けまいと踏ん張っているのだ。
ターニャは初めて彼の苦しみに思いを馳せた。
「俺1人の力では君1人を救うのが精一杯だ。だから君も……必ずここを抜け出すのだという気概を持ってほしい。俺を利用するくらいの気持ちでいてくれて構わない。必ず成功させよう」
そう言うイグナートにターニャは静かに、だが決然と頷く。
「よし。そろそろ部屋に戻るか」
そう言って立ち上がるイグナートの胸元で、取れかかっているボタンがゆらゆらと揺れた。
それが気になってしまい、ターニャは思わず声をかける。
「ちょっと待って下さい。その軍服、直します。針と糸はありますか?」
「……そんなことはしなくていい。俺は君にそんなことをさせるつもりはない。自分で直せる」
そう言うイグナートにターニャは少しばかりムッとして食い下がる。
「私のことを何も出来ない小娘だと思っているのですか? それとも針で自分の目でも突いて自殺するとでも? 今日まで少尉は調理も片付けも風呂汲みも全部して下さいましたけれど、していただくばかりで何もせずに待っている時間はそれなりに惨めなのですよ。そのくらいはさせて下さい」
そう言うターニャにイグナートは思わず呆気に取られたように目を見開いて言葉を失った。
そしてターニャに気圧されるように頷くと彼は部屋の中に戻り、それからすぐに裁縫箱を手に庭に戻ってきた。
それを受け取るとターニャは立ったままのイグナートを見上げる。
「軍服をこちらへ。すぐに終わりますので」
そう言うターニャにイグナートは黙って軍服を脱ぎ、それをターニャに手渡した。
ターニャはそれを受け取ると、裁縫箱の中から針と糸を取り出し、まずはボタンを付け直していく。
その様子を立ち尽くしたまま見下ろすイグナートに彼女は声をかけた。
「お座りになられたらいかがですか?」
彼女の言葉にイグナートは所在なさげにその場に座る。
何だか軍服を脱いだ途端にイグナートが小さくなったように見えた。
厳格な軍人のようだったイグナートが今はただの青年のように見え、ターニャは思わず笑いそうになってしまうのを堪える。
一方のイグナートはターニャの慣れた手つきを見て感心したように言った。
「手際が……良いのだな」
「炊事、洗濯、掃除から針仕事まで何でも母に仕込まれましたから。私が嫁に行き遅れないよう母も必死だったんだと思います」
その話にイグナートは黙り込む。
ふとターニャが隣を見ると、彼は暗い表情をしていた。
「すまない。俺の祖国が起こしたこの侵略戦争は……君の人生を壊してしまった」
娘に平穏無事な人生を歩ませようとした母はもうこの世にいない。
そして戦火の中で結婚どころではない若者はターニャだけでなく大勢いるだろう。
だが、それがイグナート個人の責任ではないことくらい、いかに戦争被害者のターニャと言えども分かっている。
「……まだです。まだ壊れていません。私は生きていますから」
ターニャがそう言ったのは半分強がりでもあった。
確かにこの戦争でターニャは多くを失った。
だが、人生が壊れたなどとは言われるのは業腹だ。
自分の人生をそんな風に他人に決めつけられたくはなかった。
「元々結婚したい相手だっていなかったですし、今後結婚するかも分からないです。でも私の人生はまだ続きます。結婚だって相手さえいれば自由に出来ます。これからは女だって社会に出て色々な仕事をする時代が来るはずです。一生を仕事に捧げてもいいし、働きながら妻として母として家庭を守ることも出来るはず。私の人生ですから、私の自由に生きます。壊れたなんて、そんな風に言わないで下さい」
きっぱりとそう言うターニャにイグナートは驚いていたが、やがて口元を綻ばせてフッと笑った。
イグナートが笑ったところを初めて見たターニャは、自分が思った以上に鼻息を荒くしていたことに気付き、今更ながら気恥ずかしくなる。
「わ、笑わないで下さい……」
「すまない。リーリヤにもよくそうやって怒られたことを思い出してな」
「え? 妹さんに怒られていたのですか?」
「そうさ。13も年上の兄を叱るのだから、妹もたいそう気の強い娘だった。君のようにな」
気が強いと言われターニャは少しばかりムッとしたが、自覚はあるので何も言わなかった。
彼女はイグナートのボタンを付け終えると、今度は破れた箇所を縫い始める。
そして作業の手を止めずに何気なく尋ねた。
「妹さんはどんな方だったのですか?」
その問いにイグナートはふと遠くを見るような目をする。
「リーリヤはしっかり者だった。幼い頃から体が弱くて、入退院を繰り返していたな。1年の半分は病院で過ごしていた。そのせいで同年代の友人を作れず、周りは医師や看護婦など大人ばかりだったから、自然と大人びてしまったんだろう。年の割にかなり落ち着いていた。それが……かわいそうでな」
「そうですか。でも落ち着いた性格は少尉に似たのかもしれませんよ」
「どうだろうな。妹にはもっと長く生きてほしかったが……こんな戦争を経験させたくはないという思いもある。複雑だよ」
そう言ってからイグナートはハッとしてターニャを見た。
「すまない。この戦争で辛い思いをしている君に言うことではなかったな。失言を許してくれ」
そう言ったきりイグナートは黙り込む。
ターニャは軍服を綺麗に縫い終えるとそれをイグナートに手渡した。
そして針と糸を裁縫箱にしまうと、静かに言う。
「少尉。起きてしまったことは元には戻せません。誰であれこれからどう生きるかしか選べないんです。ノーザリオン人だろうとウリエル人だろうとそれは変わらないのだと思います」
直った軍服を着るとイグナートはターニャから裁縫箱を受け取った。
「……そうだな。俺を信じてくれとは言わない。君は君自身の意思を信じ抜いてくれ。何があっても脇目もふらずに逃げ延びるのだという意思を」
そう言うとイグナートは立ち上がる。
そして窓を開ける前に小声で言った。
「軍服を直してくれてありがとう。感謝するよ。ターニャ」
そう言うとイグナートは静かに微笑む。
それは兄が妹に向けるような優しい笑顔だとターニャは感じるのだった。




