第14話 『妹』
(この人が……少尉の妹さん)
ターニャは拾い上げたロケットペンダントの中に収められた写真を見つめた。
そこにはまだ10代と思しき若い女性の顔が写されていた。
先ほどスチェパンが言っていた言葉を思い返す。
ターニャがイグナートの妹に似ているとあの男は言っていたのだ。
自分はイグナートの妹に確かに似ていた。
元々ノーザリオンもウリエルも国は違えど人種は同じであり、顔などの容姿では判別がつかないのだ。
国境を越えた他人の空似があっても何らおかしくはない。
(だから少尉は私を……)
イグナートが自分を助けた理由。
他の兵士が捕虜の女性を性的に搾取する中、イグナートが一切ターニャに手を出さない理由。
その合点がいった。
ターニャはペンダントを閉じると表面に付いた土を丁寧に払い落とし、家の中へと戻った。
イグナートはどうやら自室に入ったようで、その扉は閉め切られている。
盗聴のこともあるので声をかけるわけにはいかない。
ターニャはロケットペンダントを手に居間へと向かう。
ネックレス部分がちぎれてしまっていたので何とか直せないかと考えたが、切れた鎖を修復する工具も無いので諦めた。
そして廊下の花瓶台の上にそれを置くと自分は台所に向かう。
そしてまだ途中だった食器の洗い物を済ませた。
それから寝室に向かう。
眠いわけではなかったが、今は1人で静かに心を休めたかった。
ベッドの上に座るとターニャは先ほどのイグナートの様子を思い返す。
まだ数日の浅い付き合いだが、イグナートがあんなふうに怒りを剥き出しにしたのは見たことがない。
大学の准教授らしく知的で冷静なイグナートがあんなふうに怒ったのは、スチェパンに亡き妹のことで揶揄されたからだろう。
(少尉の妹さんは……何が原因で亡くなったんだろう)
ターニャはそんなことを考えた。
そこで不意にイグナートが部屋から出てくる音を聞いた。
彼は玄関へ向かい、扉を開けると外に出たようだ。
その様子が気になり、ターニャも寝室から出て玄関へ向かう扉を開けると、玄関の前で何かを探して地面を見ながらウロウロしているイグナートの姿があった。
ターニャはすぐに気が付いた。
イグナートが失くしたペンダントを探しているのだと。
ターニャはすぐに自分も外に出ると、彼に声をかけた。
「少尉。ペンダントなら花瓶台に……」
その言葉にイグナートはハッとして、少々バツが悪そうに頷くのだった。
☆☆☆☆☆☆
【先ほどは取り乱した。驚かせて済まなかったな】
カモミールの花が飾られた花瓶の置かれた花瓶台からロケットペンダントを拾い上げたイグナートは、居間のテーブルの中からノートを取り出してペンでそう書いた。
ターニャは首を横に振る。
それを見たイグナートはペンをノートに走らせようとしたが、それを思い留まる。
そして厳重に施錠されている居間の窓を開けると、ターニャを手招きして庭に出た。
庭は周囲を生け垣で囲まれ、地面には黄色く枯れた芝が敷き詰められている。
庭に足を踏み出したイグナートを追って、ターニャも庭に出る。
イグナートは窓を閉めるように手振りで示した。
ターニャが窓を閉めて庭に出るとイグナートはゆっくりと口を開く。
「ここなら盗聴の心配はない。こうして庭に出るのは初めてのことだったな」
イグナートの軍服は先ほどのスチェパンとの掴み合いによって、襟の部分がわずかに破けていた。
胸のボタンも取れかかっている。
「写真を……見たかい?」
ペンダントを手にそう言うイグナートの声はいつになく優しかった。
ターニャは静かに頷く。
「……ロケットが開いていたので」
「俺の妹……リーリヤは体が弱くてね。3年前……この戦争が始まる半年前に病気で亡くなってしまったんだ。まだ17歳だった」
イグナートの妹が生きていれば自分と同じ年齢だったと知り、ターニャは複雑な思いを抱く。
悲惨な戦争を知る前に病気で亡くなった彼女と、生きて戦禍に巻き込まれた自分。
どちらが幸福でどちらが不幸なのだろうかと。
「あの広間で君を見た時、思わず言葉を失った。もちろん君は妹じゃない。君は1人の戦争被害者だ。そしてあの広間に集められた女性たちも同じ被害者だ。だけど俺の身勝手な思いで……君だけは救いたいと思ってしまったんだ。自分でも傲慢だと思っている」
ターニャは何も言うことが出来なかった。
確かにイグナートは自分にとって加害者の1人だ。
しかし自分が先ほどのスチェパンに選ばれたリタという女性のように心身や尊厳を傷つけられずに済んでいるのは、イグナートが自分を半ば強引に選んでここに連れてきたからだった。
感謝するべきかどうなのかは分からなかったが、結果として自分は救われている。
ターニャは自分の気持ちをうまく整理できないまま、それでも言葉を絞り出した。
「私を逃がそうとするのは……妹さんのためですか?」
彼女の言葉にイグナートは少し寂しそうな顔で答える。
「もうこの世にいない妹のために俺がしてやれることなんて一つもない。これはただの……自己満足だ。俺は……戦争で自分が醜く変わってしまうことが嫌なだけなんだ」
そう言うとイグナートは拳を握りしめた。
「あのスチェパンも学舎時代から嫌な奴だったが、あれほど卑劣な振る舞いはしなかった。スレスキン中尉もそうだ。戦前に俺が配属されたばかりの頃は尊敬できる人だったんだ。君には信じられないと思うがな。命を奪い、奪われる戦いを経験して……多くの兵士たちが変わってしまった」
イグナートは悔しそうに唇を震わせた。
ターニャはそれを黙って見ていることしか出来ない。
「人を殺し、明日は自分が殺されるかもしれない。そんな異常な状況の中で、誰も彼もが我を失ってしまった。まるで悪魔に乗り移られたみたいに。きっとああして振る舞っている方が楽なのだ。異常を異常と思わずに済むから」
悪魔。
ターニャにとってはノーザリオン兵たちが悪魔に見えた。
もしそれが罪悪感や恐怖心から逃れるためだとしても、彼らのしていることは決して正当化できる行為ではない。
おそらく目の前にいるイグナートもそれは分かっているのだろうとターニャは思った。
そんな彼女の前でイグナートは自分の手を見つめて声を絞り出す。
「俺も……敵兵をこの手にかけた。自分で撃ち殺したウリエル兵の無残な遺体を見て恐ろしくなったよ。取り返しのつかないことをしてしまったんだと。俺が殺した相手だって、かつては望まれて生まれた赤ん坊であり両親に慈しまれただろうに。今も国で帰りを待つ家族がいるたろうに。俺はその人たちからその兵士を奪ったんだ。この戦争に加担した悪魔なんだよ。この俺も」
そう言うイグナートの顔はまるで呼吸が出来ずに苦しんでいる者のように、苦渋に満ちているのだった。




