第13話 『イグナートの怒り』
2日目の夜は1日目ほど眠れなかった。
おそらく体が極限の緊張状態にあった一昨日と違い、疲労が少しは抜けて体力が回復していたからだろう。
その分、警戒心が高まり布団に入ってから2時間ほど目が冴えたままだった。
一つ屋根の下にイグナートがいて、鍵のない寝室に自分がいるという状況が警戒心を常に生じさせ、ターニャをなかなか眠らせなかった。
いかに紳士的な振る舞いをしていても、つい3日前まで知らなかった敵国の男だ。
完全には信用することは出来ない。
ターニャは夜中にようやくうつらうつらし始め、しっかり眠れたのは明け方からの1時間ほどだった。
そのせいで3日目は朝から頭がボーッとしていた。
イグナートは変わらず調理をし、風呂を沸かし、ターニャには一切の家事をさせなかった。
それは気遣いなどではなく、ターニャに調理器具を持たせたり、風呂掃除の道具を持たせたりしないためだ。
武器になるようなものはペン1本ですらターニャの自由にさせなかった。
ターニャと同様、イグナートもターニャのことを信用していないのだろう。
当然だとターニャは思った。
一方でイグナートは本棚にある本などは自由にターニャに読ませた。
日中はすることもないので、ターニャは日がな一日本を読んでいた。
これはありがたかった。
本を読んでいれば少しは気が紛れ、時間も潰せるからだ。
こうして3日、4日目が過ぎ5日目を迎えていた。
夜は眠れたり眠れなかったりするが、イグナートは一貫してターニャと適切な距離を保ち、決して彼女に危害を加えることはなかった。
いよいよ明日は祭りの日となり、イグナートに指示された脱出計画を実行に移す時が迫っていた。
そんな朝のことだった。
イグナートの家の扉を予期せぬ訪問者が乱暴に叩いたのだ。
すでに朝食を済ませて食器を洗っている最中だったイグナートはテーブルに座っているターニャに目配せをする。
ターニャはテーブルの天板を外して中の空間に筆談用のノートを忍ばせ、天板を戻した。
そしてすぐにイグナートと交代して食器洗いのために台所に立つ。
先日の憲兵の査察を受けた際と同じやり方だ。
台所に立っていれば玄関からは死角となって見えない。
イグナートはそれを見届けると玄関に向かい、扉を開けた。
聞こえてきたのは男の声だ。
「よう。イグナート。あの細身の女とはよろしくやってるか?」
「スチェパン。何か用か? 用があるなら兵舎で聞こう」
スチェパン。
その名前と男の声にターニャは思わず身震いする。
数日前、あの広場に他の女性たちと共に集められた際、ターニャに目を付けてきた男だった。
あの男の顔と声は忘れない。
自分に向けられたあの男のおぞましい視線を思い返すとターニャは背すじに寒気を覚えた。
「そう邪険にするなよ。イグナート。学舎時代からの同期じゃねえか。今日は楽しい提案を持って来たんだ。俺の女とおまえの女、今夜交換しねえか?」
聞こえてきたスチェパンの話にターニャは思わず凍り付いたように動きを止める。
心が冷え、全身が嫌悪感で強張ってしまった。
「何を馬鹿なことを……ちょっと外に出ろ。外で話すぞ」
「嫌だね。おーい! いるんだろ? 細身の女。出て来いよ」
「いい加減にしろ。スチェパン」
「おまえもあんな肉の無い女を毎晩抱いても面白くねえだろう? 俺の女を貸してやるよ。こいつは胸にも尻にも適度に肉が付いていてなかなか楽しめるぞ。ほら。リタ。こいつが同期のイグナートだ。挨拶しろ」
その場にスチェパンに選ばれたリタという女性も連れられてきているのだとターニャは知り、恐怖が怒りに変わっていくのを覚えた。
女性を物のように扱うスチェパンという男にターニャは憎悪を抱く。
その怒りが伝わったかのようにイグナートがスチェパンを一喝した。
「黙れ! 外に出ろ!」
イグナートの激昂する声が響き、扉がバタンと閉まって男たちの話す内容は聞こえなくなった。
だが外で言い争う男たちの声は激しくなる一方だ。
ターニャは頭の中に渦巻く様々な感情に突き動かされるようにフラフラと歩き出し、玄関へと向かう。
そして玄関の扉に耳を当てると外からスチェパンの軽薄な声が聞こえてきた。
「女を交換なんて他の奴らもやってるぜ。そんなに堅苦しくなるなよ。イグナート」
「恥を知れ。スチェパン。その蛮行を祖国の妻や幼い息子に言えるのか? 夫や父親がそんな恥知らずな真似をしていると知れば、おまえの家族はひどく悲しむことになるぞ。愛する家族に対して恥ずかしいとは思わないのか」
「白けることを言うんじゃねえよ。こんな戦地でお楽しみでも無けりゃやってられんだろう。おまえだってあの細い女と楽しんでいるんだろうが。だいたい気楽な独身のおまえが妻帯者の俺に対して偉そうなことを言うのは笑わせるぜ」
ターニャはスチェパンに対して更なる嫌悪感を募らせる。
祖国にいる彼の家族は夫を、父を心配していることだろう。
だというのにあの男は他国の女に非道を働き、まるで物のように扱っている。
戦地であろうとそれを正当化することなど許されるはずはないのだ。
「おまえの話には一切の共感も賛同も出来ん。帰れ」
イグナートが冷たくそう言い放つとスチェパンの舌打ちが聞こえてきた。
「チッ。つれねえ野郎だぜ。そんなにあのターニャとかいう女がいいのか? そう言えばあの女、おまえの死んだ妹にどことなく似ているよな? まさか妹の代わりに傍に置こうってのか? ってことはおまえ、妹に似た女を抱いてるのか? 大した変態趣味……ぐえっ」
そこでスチェパンの呻き声が聞こえ、続いて怒声が響き渡る。
「て、てめえっ! イグナート!」
「黙れっ! 妹の侮辱は許さん!」
2人の男が争う音と、女性の悲鳴が聞こえてきてターニャは思わず玄関の扉を開けた。
すると軒先でイグナートとスチェパンが取っ組み合っていた。
そのすぐ近くではスチェパンが連れてきたウリエルの女性リタが顔を恐怖に歪め、口元に手を当てて立ちすくんでいる。
彼女は肌の露出が多く、体の線が強調される服を着ていた。
あの広間に集められていた時にそんな服を着ていた女性はいなかったから、スチェパンによって強要された服装なのだろう。
よく見るとその女性の頬には殴られた跡のような青アザがあり、首元には赤い跡が散見される。
あまりにも痛ましいその姿にターニャは思わず目を逸らしてしまった。
あの日あのままスチェパンに選ばれていたら、自分が今の彼女の立場だったのだ。
その思惑はどうあれ、イグナートが咄嗟に自分を選んでいなければ、自分は今よりもずっと悲惨な目に遭っていたことだろう。
「前からおまえは気に食わなかったんだ! インテリ野郎が!」
怒りに燃えるスチェパンはイグナートの顔を殴りつけようと拳を振り上げた。
それを見たターニャは思わず金切り声を上げていた。
「やめてください! 人を呼びますよ!」
ターニャの声に反応するまでもなく、先ほどの女性の悲鳴やイグナートとスチェパンの争う怒声を聞き付けた他の兵士たちが家の前に集まってきた。
それを見たスチェパンは憎々しげな顔でイグナートを睨みつけると、振り上げた拳を下ろす。
そしてイグナートから離れ、乱れた軍服を直しながら言った。
「おい。イグナート。俺はな、この休息期間が終わったら次の作戦から中尉に昇格する。前回の戦いでウリエル兵を10人以上は撃ち殺したからな。ロクに人も殺せぬ臆病者のおまえと違って俺は出世するぜ。二度と生意気な口をきけなくなるから覚悟しておけよ」
そう言うとスチェパンは俯いたままのリタの肩に腕を回し、意気揚々と引き上げていく。
イグナートは歯を食いしばって立ち上がると、驚いたまま立ち尽くしているターニャに小声で言った。
「驚かせてすまない。家に戻ってくれ」
そう言うとイグナートは先に家の中に戻っていく。
騒ぎに集まって来ていた兵士たちが事態は収まったのだと散っていく中、ターニャも家の中に戻ろうとした。
だがそこで彼女は地面に落ちている何かを目にして、足を止めたのだ。
そしてそれを拾い上げる。
「これって……」
ターニャが拾い上げたのはちぎれたネックレスだった。
もしかしたらイグナートの物かもしれない。
そのネックレスの先には円形のロケットペンダントがついている。
地面に落ちた衝撃でロケットペンダントの蓋が開いており、中には一枚の小さな写真が収められていた。
それは……どことなくターニャに似た若い女性の顔写真だった。




