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葬霊の鞘と銀の月 ―百年戦争の残滓― 〜神を喰らう魔剣と、奇跡を紡ぐ少女〜  作者: ウィースキィ


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第67話 春の庭園で


 魔神イフリートとの死闘。その地獄のような焦熱の記憶を、春の柔らかな陽光が穏やかに塗り替えていく。


 あの日、すべてを焼き尽くさんとした絶望の焔は、今や遠い夢の彼方へと追いやられ、代わりに瑞々しい新緑の息吹が街を包んでいた。


 壮絶な死闘から、早くも『三ヶ月』の月日が流れていた。


 窓の外では名もなき小鳥たちが春の訪れを祝うように囀り、風に舞う桜の花びらが、うららかな季節の輪郭を描き出している。そんな平和を絵に描いたような朝、自宅兼事務所の二階にあるリアムの部屋で、ルナは小さく、けれど決然とした溜息を漏らした。


「……リアムさま。もう、いい加減に起きないと本当に置いていかれますよ?」


 ベッドの上では、大きな毛布の塊が亀のように丸まって、もぞもぞと動くだけである。中身からの返答はない。リアムは深い眠りの淵で、春の抱擁に身を任せきっていた。呼びかけても、隣で肩を揺すっても、聞こえてくるのは穏やかで微かな寝息ばかりだ。


 ルナは困ったように眉を下げたが、その瞳には慈愛に満ちた、ほんの少しの悪戯っぽい色が宿る。彼女は小さく頷くと、作戦を変更することにした。


「これならどうですか……? ふに、ふにふに」


 白く透き通るような指先が、毛布の隙間から覗くリアムの頬を優しく突っつく。指先に伝わる、若々しい肌の温もりと吸い付くような弾力。その感触を秘かに楽しみながら、彼女は何度もその柔らかな場所を『ふにふに』と弄り倒した。


 しかし、リアムは幸せそうな微笑を口元に浮かべるだけで、一向に覚醒する気配を見せない。


(うう……これでも起きないなんて。……ま、まさか、これは……『好機』なのでは……っ!?)


 ルナの脳裏に、先日、街の図書館で借りたお伽話のワンシーンが鮮やかに蘇った。恐ろしい呪いに囚われた王を、その呪縛から解き放つためにヒロインの姫君が捧げた、たった一つの『聖なる魔法』。


(目覚めの……『口づけ』が必要なのでは……っ!?)


 一度その考えが芽生えると、羞恥心と期待が胸の中で嵐のように吹き荒れた。それ以外の選択肢は、瞬時に彼女の意識から消去される。


 ルナの頬は熟れきった林檎のように赤く染まり、早鐘を打つ心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。彼女は意を決し、毛布越しにリアムの腹部へと跨がった。壊れ物に触れるような、震える手つきで少しずつ、ゆっくりと顔を近づけていく。


 十センチ。五センチ。


 リアムの規則正しい、春風のような吐息がルナの唇をかすめ、甘い眩暈が彼女を襲う。彼女はぎゅっと瞼を閉じ、あどけない寝顔を残すその唇に、己のそれを重ねようとした――その、刹那であった。


「ちょっとーっ! リアム、ルナ! いつまで寝てんのよ、さっさと準備しなさい!」


 一階の事務所から、階下を震わせるジレッタの快活な声が響き渡った。静謐な朝の情愛は、その一喝によって無残にも粉砕される。


「う、わぁぁぁッ!?」


 雷に打たれたように跳ね起きたリアムの硬い胸板に、至近距離にいたルナの額が正面から激突した。


「あうっ!」


「げふっ!? る、ルナ? なんで、俺の上に乗って……」


「な、ななな、なんでもありません! えっと……おはようございます?」


 後ろに転げ落ち、捲れたスカートの裾を慌てて直しながら、ルナは涙目のまま精一杯の虚勢を張った。心臓が口から飛び出しそうなほど激しく脈打っている。


「なんで疑問形なんだよ……」


「と、とにかく朝ですよ! ジレッタさんももう到着されているんですから、早く降りてきてくださいー!」


 火が出るほど赤い顔のまま、ルナは脱兎のごとく部屋を飛び出していった。


 残されたリアムは、寝癖のついた頭を掻きながら「?」と首を傾げた。だが、窓から差し込む眩い陽光に目を細め、ふと傍らの卓上に置かれたカレンダーへと視線を落とす。


「……そうか。今日は、あの日からちょうど三ヶ月か」


 その呟きには、三ヶ月前には持ち得なかった、静謐な重みと覚悟が宿っていた。彼は手短に身支度を整えると、鎖でぐるぐる巻きの愛刀を手に取り、一階へと向かった。


 事務所では、既に準備を完璧に整えたジレッタが、腰に手を当てて待ち構えていた。


「遅いわよ、寝坊助。ほら、行くわよ」


「行きますよ、リアムさま」


 ルナにぐいぐいと袖を引かれ、リアムは苦笑を浮かべながら、春の香りに満ちた街へと踏み出した。


 三人が向かったのは、街の外れ、深い緑に守られるように建つ荘厳な屋敷。かつて、すべての運命が交錯し、物語が大きく動き出した場所――テトラの屋敷である。


 重厚な門の前には、テトラと、バビロとは別の若い執事が端然とした佇まいで彼らを出迎えた。


「ようこそおいでくださいました、皆様」


 テトラの声は、以前よりも落ち着き払った響きを湛えていた。貴族としての凛とした矜持と、年相応の瑞々しい美しさが、今の彼女には同居している。


「テトラさん、お久しぶりです。あの日から、今日で三ヶ月も経ったんですね……」


「ええ……。時が過ぎるのは、残酷なほどに早いわね」


 リアムの感慨深い言葉に、ジレッタが意味深に、そしてどこか遠くを見つめるような寂しげな声音で追随する。テトラは優しく微笑み、鉄の門を静かに開いた。


「バビロが今ここにいたら、きっと喜んで皆様をお迎えしたでしょうに。……さあ、中へどうぞ」


 招かれるままに、三人は屋敷の中庭へと足を進める。そこは、初めてテトラから依頼を受け、見知らぬハンターたちと共に語り合った、すべての始まりの場所だった。


 色とりどりの春の花が咲き乱れ、木々の梢からは澄んだ鳥の囀りが降り注ぐ。そのあまりに平和な光景を見つめていると、リアムの胸には熱い塊が込み上げてきた。


「本当に、懐かしいです。……ああ、バビロさんが、あの人がここにいてくれたら、どんなに良かったか……」


 リアムが感極まった様子で天を仰ぎ、えらく悲しげな溜息を吐き出した――その時。


「……勝手に人を殺さないでいただけますか、リアム様。これだから若者は、情緒が過ぎて困りますな」


 庭園の木陰から、聞き覚えのある、けれど相変わらず棘を含んだ皮肉な声が響いた。


 リアムたちが振り返る。そこには、車椅子に乗った一人の老執事が、テトラに背を押されて静かに姿を現した。


「いやぁ、なんとなく悲しみに浸りたいような気分だったもので」


 リアムはおどけて見せることで、込み上げる喜びを誤魔化した。


 イフリートとの死闘の末、ルナが放った『神聖なる奇跡』。それは事象の巻き戻し、あるいは生命の再定義とも呼ぶべき力だった。バビロはその力によって、辛うじて現世へと繋ぎ止められたのである。


 激闘の代償として膝から下の両足を失いはしたものの、その眼光の鋭さと、背筋を真っ直ぐに伸ばした執事としての気高さは、一塵も損なわれてはいなかった。


 そして、バビロの膝の上には、一匹の小さな銀色のトカゲ――いや、銀の鱗を持つ幼き竜が丸まっていた。


「久しいな。アイテリエルの契約者」


「俺はリアムですって。いい加減に覚えてくださいよ」


 その小さき竜こそが、かつての銀竜ハルファスである。特級中位の威容を誇った大悪魔は、バビロの命を救うために自らの魂の大部分を供物として捧げた。存在が消滅の霧に呑まれようとしたその瞬間、ルナの魔法がその『消滅』を『再構成』へと書き換えたのだ。


 しかし、失った力はあまりに大きく、今の彼は低級悪魔のなかでも最下層に近いほどにまで弱体化している。


 かつての威風堂々とした面影は影を潜めたが、その黄金の瞳には、相棒の膝の上で安らかに微睡む、穏やかで幸福な光が宿っていた。


「ハルファスも、すっかり小さくなってしまいましてね。……お陰で、私の足代わりを務めるという約束も、当分はお預けになりそうです」


「ふん。別に構わないだろう。バビロ、今のお前には寄り添ってくれる者がいるのだからな」


 バビロは困ったように肩を竦めてみせたが、その表情は深い慈愛に満ちていた。ハルファスの視線の先にいる、車椅子を引くテトラへと、柔らかな視線を向ける。


「バビロがいてくれるから、私はまた前を向いて歩けるのです。彼は私の執事であり……『本当の父』のような存在ですから」


 テトラが車椅子の背を握る手に力を込め、誇らしげに、そして確かな絆を噛みしめるように言った。


 失ったものはあまりに大きく、身体に刻まれた傷跡は今も消えることはない。


 だが、春の柔らかな日差しの中で、かつて命を懸けて戦った者たちは、確かにそこに『生きて』いた。


 リアムは、隣で自分の手をぎゅっと握るルナの温もりを感じながら、瑞々しい新緑の匂いを深く吸い込んだ。運命という名の嵐は過ぎ去り、今はただ、この穏やかな時間が永遠に続くことを願わずにはいられない。


 だが、物語はまだ終わっていない。


 ルナの秘めた力の正体、そして魔界の深淵で、消えた魔神の跡を継ぐように動き出した新たな影――。


 彼らの真なる旅路は、この春の陽だまりの向こう側で、静かに、けれど確実に幕を開けようとしていた。


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