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葬霊の鞘と銀の月 ―百年戦争の残滓― 〜神を喰らう魔剣と、奇跡を紡ぐ少女〜  作者: ウィースキィ


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第66話 新たな運命の歯車


 吹き荒れていた熱砂の嵐が止み、視界を白濁させていた極光が、砂時計の砂が落ちるように静かに引いていく。


 あとに残されたのは、かつて地獄の釜と化した光景とはかけ離れた、耳が痛くなるほどの静寂であった。


「……阿、ガ……ッ!? 馬、な……馬鹿なッ!!」


 静寂を切り裂いたのは、断末魔の叫びであった。


 魔神イフリートの、山脈を思わせる巨躯が、その核を砕かれた箇所から崩壊を始めていた。どす黒い魔力の炎が、内側から溢れ出す純白の光に食い破られ、粒子となって虚空に溶けていく。


「この俺が……数万の魂を喰らい、不滅を謳歌したこの俺が……! このような、明日をも知れぬ短命な種族に……しかも、枯れ果てた老兵の一撃に、敗れるというのかッ!!」


 イフリートの双眸(そうぼう)に宿ったのは、初めて味わう『死』という概念への、純粋な驚愕と屈辱であった。あざけり、弄んできた人間の執念が、神話の理さえも塗り替えたのだ。魔神の手が虚空を掴もうと、四本の腕がもがくように動くが、その端から存在そのものが掻き消えていく。


 やがて、絶望に満ちた絶叫は風に散り、そこにはただ、永きにわたる呪縛から解放された灰だけが、雪のように降り積もった。


 明確な死が、そこにあった。


「……あ……。…………ぁ」


 灰の舞う戦場の中心で、バビロは目を見開いた。


 全身を貫く激痛と、それ以上に強烈な違和感に、意識が強制的に覚醒する。


 (生きている……?)


 魂と肉体を天秤にかけ、禁忌の術式にすべてを捧げたはずだった。本来であれば、核を貫いた瞬間に自身の存在もまた消滅し、無に還っているはずの身。


 バビロは自身の体に視線を落とし、息を呑んだ。


 膝から下――老いた剣士を支えてきた両足が、跡形もなく消失していた。しかし、そこから血が流れることはなく、代わりに銀色の鱗のような輝きが傷口を塞いでいた。


 それが何を意味するか、彼は即座に理解した。


「……ハルファス……ッ!!」


 すぐ傍らに、白銀の巨影が横たわっていた。


 銀竜ハルファス。その身体はもはや実体を保てず、透き通った幽霊のように淡く揺らめいている。


 バビロが禁呪を完成させるその刹那、ハルファスは自らの契約を盾とし、バビロの魂を買い戻すために、己の存在そのものを『代償』として捧げたのだ。


「……なぜだ。ハルファス、なぜ私などを生かしたのです! 貴方は……貴方こそが、不滅の命を持って、これからも生き続けるべきだったのに……!」


 バビロは這いつくばり、消えゆく銀竜の頸筋(けいきん)に触れようとした。だが、その手は虚しく空を切り、銀の粒子に触れることしか叶わない。


 ハルファスは弱々しく瞼を上げ、黄金の瞳に満足げな光を宿して、かすかに笑った。


「……案ずるな、バビロ。我は……ただ、最後を自分で決めたまでのこと」


 その声は風のように掠れていたが、驚くほど穏やかだった。


「魔界の極寒の山にこもり、ただ刻が過ぎるのを待つだけの退屈な日々。そこに現れたのが、貴様という風変わりな男であった。……バビロ、お前という存在に出会って、我の世界は色を変えた」


 何にも期待せず、ただ力を求めてきた他者とは違い、バビロは誇りと、悲しみと、そして言葉にできぬほどの深い愛情を抱えていた。共に世界を巡り、人間の脆さを知り、それゆえの強さを知った。


 五十年の歳月は、不滅を生きる悪魔にとって一瞬にも満たぬ瞬きのようなものだが、ハルファスにとっては、それ以前の数千年の永劫よりも遥かに濃密で、愛おしい時間だったのだ。


「脆弱で、脆く、すぐに壊れてしまう人間。だが、その胸に宿る(ほのお)の、なんと気高く、美しいことか……。それを見られただけで、我はもう満足だ。もう十分に、長く生きたのだからな」


「それでも……! 貴方が消えてしまうのは嫌だ! 私の勝手だ、だが……貴方がいない世界で、私にどう生きろというのだ!」


 感謝の涙を流しながらも、バビロは子供のように首を振った。執事としての仮面を脱ぎ捨て、一人の孤独な魂として、唯一無二の相棒との別れを拒絶した。


 その時。


 灰に沈む戦場に、柔らかな足音が響いた。


 オリビアに支えられ、リアムとジレッタを連れて現れたのは、少女――ルナであった。


 ルナは、今にも存在ごと消失しそうなハルファスの傍らに寄り添うように座った。彼女の瞳には、かつての空虚さはなく、自身の運命を受け入れた者だけが持つ、深く慈悲深い光が宿っている。


「……ルナ、思い出しました」


 少女は祈るように手を組み、静かに言葉を紡ぎ出した。


「ハルファスさん。ルナは……自分の名前さえ忘れていたけれど、また一つ、大切なことを思い出したんです。……ルナは、誰かを助けるための力を持っています。そして、その力は……今、あなたを救うためにあったのだと」


 ルナの唇から零れ落ちたのは、この世の言語ではない、調べのような詠唱。


 次の瞬間、彼女の全身から、この世のものとは思えぬほどに美しい『薄緑色の光』が溢れ出した。


 その光は、呪われた古戦場に降り注ぐ天の恵みのようであった。


 光が触れた大地から、漆黒の煤が消え去り、瑞々しい若草が芽吹き始める。焦熱の記憶は書き換えられ、溶岩の裂け目からは清らかな水が湧き、名もなき野花が次々と蕾を解いていく。

 

 まるで、永い永い冬が終わりを告げ、祝福に満ちた春が訪れたかのように。


「……な、んだ……これは……」


 オリビアが驚愕に声を震わせ、リアムは刀を鞘に納めたまま、ルナが引き起こす奇跡を食い入るように見つめた。


 ただの治癒ではない。これは、枯渇した根源を呼び覚まし、死の運命を強引に生の路へと引き戻す、神聖極まる魔力。


 ハルファスの透過していた輪郭が、薄緑色の粒子を吸い込み、再び実体を持って銀の輝きを取り戻していく。ルナの祈りに包まれ、まるで時間が巻き戻るかのように再生を始めていた。


 春の風が吹き抜け、荒れ果てた地は一面の緑の草原へと塗り替えられる。


 絶望の果てに訪れた、信じがたい平穏。


 その中心で祈り続けるルナの背中を見つめ、リアムは確信していた。


 彼女の正体が何であれ、この奇跡が――新たな運命の歯車を回し始めたことを。


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