第65話 絶望のその先へ
世界の終焉を告げる『漆黒の劫火』が、天を覆う重雲さえも塵へと帰し、虚空をどろりと濁った深紅に染め抜いていた。
魔神イフリートが全霊を以て展開した結界魔法、『終末の紅蓮城』。
触れるものすべてを炭化させる絶対的な死の領域に対し、今、五つの魂が、神話の壁を穿つ唯一の楔となって重なり合う。
「総員――突撃!!」
オリビアの凛烈たる号令が、熱波に激しく震える大気を鋭く切り裂いた。
『五位一体の猛攻』。それは、個の限界を超越した者たちが、刹那の拍動を完璧に同調させ、互いの背後を魂で繋いだ究極の連撃であった。
先陣を切り、地獄の業火を真っ向から切り裂いたのは、鉄血の聖女、オリビア・フローレンス。
彼女が振り下ろした白銀の聖剣から放たれたのは、視認することすら叶わぬ、透明な『真炎』であった。熱という概念が極限まで純化され、色彩さえ消失したその揺らめきは、イフリートが吐き散らす漆黒の火炎を、より高次の熱量で強引に蒸発させていく。
「拓けッ! 我が不可視の焔よ!」
空間を飴細工のように歪める真炎が、魔神へと続く火の障壁を縦一文字に断ち割り、一筋の清浄な光路を創り出す。そこへ、まるで死神のような影を全身に纏ったジレッタが、重力さえも置き去りにした超速の跳躍で躍り出た。
「アヌビス、刻むわよ! 全同調!」
ジレッタの振るう父の遺志を継ぐレイピアが、漆黒の雷光となってイフリートの関節を、魔力供給路たる『経絡』を、そして黄金にぎらつく双眸を、精密無比に貫いていく。契約悪魔アヌビスの冷徹な殺意がジレッタの四肢に憑依し、魔神の巨体に一瞬の硬直を無理矢理強いた。
さらに、その硬直を永遠へと固定せんと、白銀の巨影が天から舞い降りる。
銀竜ハルファスが翼を広げ、氷界の深淵を呼び覚ます絶対零度の冷気を放射した。
「再生は許さぬ……火種よ、永遠の静止に凍えよ!」
ハルファスの冷気は、もはや物理的な氷ではない。それは事象の推移そのものを拒絶する『凍結の呪い』であった。ジレッタが穿った無数の傷口に、白銀の霜が血管のように這い回り、イフリートの驚異的な再生能力を分子レベルで封じ込めていく。
ついに、絶望の向こう側への道が完成した。
オリビアの透明な炎が道を拓き、ジレッタが動きを止め、銀竜が再生を封じた。
その最奥――魔神の喉元を喰らわんと、リアムとバビロ、新旧二人の最強の剣士が弾かれたように地を蹴った。
二人の足元で、溶岩と化した大地が爆ぜる。
リアムはアイテリエルの純白の魔力を一滴残らず刀身に宿し、バビロは五十年の歳月をかけて煮詰めた執念を魔剣セレスティアルへと流し込む。並走する二人の周囲では、音速を超えた衝撃波が幾重にも重なり、火花が夜の闇を切り裂く火龍のごとく散った。
(……来るか、猿どもがッ!!)
イフリートの瞳に、初めて真の危惧が宿った。
懐へと潜り込んでくる二つの光芒。特に、リアムが携える『世界で最も孤独な悪魔』の気配は、魔神の核を直接震わせるほどの根源的な畏怖を帯びている。
「舐めるなよ……! この俺が、人間如きに討たれるなどと、あってはならぬのだッ!!」
イフリートが咆哮し、残された二本の腕を胸の前で不気味に交差させた。
瞬間、魔神の体内から、蓄積された数万の魂を一度に爆発させるがごとき、禍々しき暗黒の魔力放射が放たれた。
それは魔神の全身全霊で放たれる禁忌に触れる大魔法――『虚無の焦熱太陽』。
触れるものすべてを存在の根源から抹消し、特級悪魔であっても一瞬で原子に分解する、絶望の具現。黒い太陽が膨張し、リアムとバビロを呑み込まんとしたその刹那。
「――アイテリエル!!」
リアムが、鞘から純白の刀を抜き放った。
一閃。
それは光ですらなかった。あらゆる事象を拒絶し、孤独を強いるアイテリエルの力が、物理法則を超越した『虚無の刃』となって、迫り来る暗黒の太陽を真っ向から両断したのだ。
爆散する暗黒。裂かれた魔法の余波が戦場を蹂躙し、大気を震わせる中、ただ一人、止まらぬ男がいた。
「……ハッ!!」
裂かれた絶望の隙間を、バビロが駆け抜ける。
肺腑を焼く熱気、全身の皮膚を無数に切り裂く魔圧。だが、老執事の意識は、すでに自身の肉体にはなかった。
(――バビロくん。ずっとそばにいさせてね?)
耳元で、遠いあの日、最後に交わしたはずの愛しい婚約者の声が聞こえた気がした。
イフリートの周囲を漂う黒い煤のような魔力。その一つ一つから、かつてこの魔神に魂を喰らわれ、臓腑の奥でくすぶり続けていた少女たちの、絶望と救いを求める悲鳴が響いてくる。
(ああ……セレスティーナ……。皆、ここにいたのだな。ずっと、この暗闇の中で、独りで泣いていたのか)
視界の端に、かつて守りきれなかった婚約者の面影が淡く過る。
バビロの心臓が、人生で最後にして最大の拍動を打った。
五十年間。ただ復讐のために己を研ぎ澄ませ、数多の罪を背負い、自身の魂を汚し続けてきた。すべてはこの一瞬のため。
「……ハルファス!! 今こそ……今こそ、我らが誓いを果たす刻です!!」
バビロの魂の叫びに、銀竜が咆哮を以て共鳴する。
ハルファスは巨躯を瞬時に縮小させ、一条の白銀の光となってバビロの剣へと飛び込んだ。
「よかろう、バビロ! 魂のすべてを喰らい尽くし――その執念を、銀の世界へ昇華させよ!!」
契約の最終段階。『魂の供物』。
バビロは、自身の魂そのものを燃料とし、肉体を媒介として捧げる禁忌の術式を発動させた。
魔剣セレスティアルの輝きが、銀色から、すべてを無に帰す純白へと変貌を遂げる。
バビロの身体が、足元から青白い粒子となって崩れ始め、代わりにその手に握られた刃は、世界の質量すべてを肩代わりしたような圧倒的な存在感を放つ。
「この五十年の全てを……私の残された命の、最後の一滴までを!!」
イフリートの驚愕に満ちた異形の顔が、すぐ目の前にあった。
魔神が放つ防御の炎さえ、魂を焼却して進む今のバビロを止めることはできない。
「喰らえ、イフリート!! これが……我らの、そして貴様に蹂躙されたすべての魂の、慟哭の一撃だ!!」
バビロが跳んだ。
崩れゆく肉体が、一条の白銀の閃光と化してイフリートの胸部――その深奥に隠された、不滅を司る『魔神の核』へと、吸い込まれるように突き刺さる。
ギィィィィィィン!!
世界からすべての音が消失した。
あまりに巨大な魔力と魔力の衝突。純白の輝きと漆黒の炎が混ざり合い、戦場全体を巨大な光の繭が包み込んでいく。
貫いたか。あるいは、耐えられたか。
荒れ狂う光の渦の中で、バビロの意識は白濁し、溶けていく。
ただ一つ、彼の手に伝わる確かな『感触』だけが、残酷なまでの真実を刻み続けていた。
爆発的な光が古戦場を飲み込み、視界のすべてが完全な白一色に塗り潰される。
静寂。
そして――。
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