第62話 いつもの魔法ですけど……。変、でしたか?
天を焼き尽くす紅蓮の火柱が猛り狂い、爆ぜる溶岩が絶望の雨となって戦場を蹂躙する。
オリビア、リアム、そしてジレッタの三人は、文字通り命を削りながら魔神イフリートの猛攻を正面から受け止めていた。鋼と焔が交錯するたびに衝撃波が大地を削り、一秒が永遠にも感じられる濃密な『殺界』。その過酷な前線から僅かに退いた岩陰で、ルナは震える小さな手をバビロとハルファスへと差し伸べていた。
「……ルナ、皆さんのように戦う力はありません。だから、これくらいしかできなくて……ごめんなさい」
申し訳なさそうに、けれど瞳に決然とした光を宿し、ルナは祈りを捧げる。
彼女の指先から溢れ出したのは、濁りのない至純の『薄緑色の光』であった。それは通常の治癒魔法がもたらす温熱とは異なり、魂の深淵に直接染み渡るような、静謐かつ圧倒的な生命の奔流である。
バビロの焦げ付いた皮膚が、瞬く間にみずみずしさを取り戻していく。砕けた骨は吸い付くように接合し、枯渇しかけていた魔力回路が濁流のごとき勢いで再充填されていく。その驚異的な光景――もはや再生を超えた『事象の巻き戻し』に、何よりも驚愕したのは、永い時を生き、悪魔の根源を知り尽くした特級悪魔ハルファスであった。
(……何だ、この魔力は。単なる治癒などではない。損壊した肉体の歴史そのものを塗り替えている。そして、この魔力の『味』……覚えがあるぞ)
ハルファスは、自らの傷口が塞がる際の震えるような生命の波動を反芻し、黄金の双眸を大きく見開いた。その鋭い視線が、懸命に魔法を紡ぐ少女を射抜く。
「娘よ、貴様……その力、どこで手に入れた」
「えっ……? あの、ルナ、リアムさまと出会った五年前よりも前の記憶がなくて。でも、何故か治癒魔法だけは覚えていたんです。いつもの魔法ですけど……。変、でしたか?」
不意に投げかけられた峻烈な問いに、ルナはキョトンと首を傾げる。そのあまりにも無垢な反応に、ハルファスの背筋をかつてない戦慄が走り抜けた。
(この回復力、そしてこの特有の重圧を孕んだ魔力の波動……。まさか――『皇の聖巫女』か……?)
ハルファスは信じがたい幻影を見る目でルナを見つめ続けたが、戦場に停滞は許されない。彼女による治癒が完了したことを察するや否や、ハルファスは己の翼から数枚の銀鱗を剥がれ落とし、それをルナの周囲に展開した。
「今は、余計な説明をしている暇はない。だが娘よ、貴様は一歩もここを動くな。わが鱗が、如何なる火種からも貴様を護り抜くだろう」
銀鱗が空中で共鳴し、ルナを包み込む不可視の堅牢な結界が構築される。ハルファスはバビロをその背へと促し、再び地獄の釜と化した戦場の中央へと飛翔した。
空を裂く突風の中で、ハルファスの背に立つバビロが低く問いかける。
「ハルファス。先ほど仰っていた……『皇の聖巫女』とは何のことですか? 以前は今回ほど強力な治癒能力ではなかったと思い、すこし疑問に思っていましたが、ルナ様の力に、何か心当たりが?」
ハルファスは鼻から熱い呼気を吹き出し、前方で炎を撒き散らすイフリートを見据えながら、その重厚な声音を響かせた。
「……かつての百年戦争を覚えているか。魔界を統べる悪魔皇帝が、人の世の英雄たちと覇を競い、ついには相打ちに近い形で深手を負った戦いだ」
「ええ、もちろん。皇帝の負った傷は、如何なる高位魔法や秘薬を以てしても癒えぬ呪縛となった……と、古き文献にはありますな」
「左様。そこで皇帝は、自らの癒えぬ傷を塞ぐためだけに、魔界中の強力な治癒保持者や稀有な聖属性に近い適性を持つ悪魔たちを強制的に集め、子を成させた。自身の膨大な魔力を分け与え、純化させ、癒やしのみに特化した『生体兵器』を創り出したのだ。その数多の落とし子の中で、最も優れた力を持つ個体が『皇の聖巫女』と呼ばれ、皇帝の玉座の傍らでその命を繋ぎ止める役割を担わされた」
ハルファスの言葉には、かつてその巫女の一人と対峙した者だけが知る、苦い畏怖が混じっていた。
「わが知る巫女の魔力は、触れるだけで悪魔の根源を書き換えるほどに苛烈で、かつ慈愛に満ちていた。……あの娘、ルナが放った光。あれは間違いなく、皇帝の血脈が混ざり合った、呪われた聖域の輝きだ。なぜ、あのような娘が人の世に紛れているのかは分からぬがな」
バビロは黙然として、眼下で戦うリアムの背中を見つめた。
イフリートの四本の腕を、鞘付きの刀を用いた神速の抜刀術でいなし続ける少年。彼の周囲には、今や多くの人々が集まっている。
鉄血の聖女。銀鱗を継ごうとする少女。そして、魔界の深奥に関わる血を引く少女。
「……リアム様」
バビロの独白が、風に溶ける。
「あなたの周りには、どうしてこうも……過酷な運命を背負った者が集まるのでしょうな。まるで、あなたがこの世界の悲鳴を吸い寄せる磁石であるかのように」
それは憐憫ではなく、ある種の確信に近い感慨であった。自らもまた、その磁力に惹かれ、己の罪と決着をつけるためにこの場所に立っている。
「ハルファス。ルナ様が何者であれ、今はあの方たちが護り抜くでしょう。……我々は我々の義務を。あの火種を消し、約束を果たす刻です」
「くく、分かっている。行こう、バビロ。我が冷気が、奴の傲慢ごとすべてを凍結させてやる」
銀竜の咆哮が戦場を震わせ、バビロは魔剣セレスティアルを正眼に構えた。
リアム、オリビア、ジレッタが作った一瞬の隙――そこへ、再生を終えた最強の主従が、死の冬を運ぶ一閃となって突っ込んでいく。
背後で祈り続けるルナの放つ光が、彼らの背中を、消えることのない道標のように照らし続けていた。
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