第57話 大悪魔が、人間に興味を……?
帝都から北方へと無辺に伸びる鉄路の上を、巨躯の魔導列車が重々しい咆哮を上げて突き進んでいた。
凍てついた線路を車輪が刻む、断続的で硬質なリズムは、どこか死者を悼む弔いの鐘の音にも似て、薄暗い平原に虚しく消えていく。客車の窓を叩く激しい雪礫は、視界のすべてを無慈悲な白へと塗り潰していた。
特等車両の一室。壁面の暖炉に設えられた魔導具が赤々と燃え、薪の爆ぜる音に似たパチパチという魔力の共鳴音を響かせている。
その個室の中で、リアム、ルナ、ジレッタ、そしてオリビアの四人は、向かい合うようにして腰を下ろしていた。揺れる車内、白磁のカップの中で絶えず波打つ紅茶の表面には、各自の胸中に渦巻く険しい思惑が映り込んでいる。
「……オリビア。目的地に着く前に、もう少し詳しく聞かせてくれないか。バビロさんと、その契約悪魔――ハルファスについて」
沈黙の帳を切り裂いたのはリアムだった。その問いを受け、窓外の流れる雪景をじっと見つめていたオリビアが、重い瞼を持ち上げるようにして視線を戻す。
「いいだろう。貴様たちには、これから対峙するものの正体を知る権利がある。……私がバビロの下で、ハンターとしての初歩から血に塗れた実戦の機微まですべてを叩き込まれたのは、十歳から十三歳までの三年間だ。当時のあやつは、まさに『生ける伝説』そのものであった」
オリビアの瞳の奥に、淡い追憶の火が灯る。それは師に対する絶対的な畏怖と、喉の奥に押し込めた敬愛が混じり合った色であった。
「バビロは、類まれな剣の才能もさることながら、緻密な計画性と冷徹なまでの戦略性を併せ持っていた。根は確かに優しい男だ……だが、任務となれば話は別だ。目的遂行のためならば、非情な決断もそつなくこなす。……今の貴様たちの目には、復讐に狂った老人に映っているかもしれんが、あやつの本質は『冷徹なまでの合理主義者』なのだ」
「冷徹な、合理主義者……」
ジレッタがその言葉を、苦い薬を飲み込むように繰り返した。
資料室で見出した、あの四百名の死刑囚を駒として配した采配。寿命を迎える四つ子の少女すらも儀式の礎とした、善悪の彼岸にある冷徹な決断。何より合理的であり、持ち得るすべてを盤上の資源として最大活用する。それこそが、バビロという男の真骨頂なのだと、彼女は戦慄と共に理解した。
「そんなバビロさんが、どうしてハルファスなんて大悪魔と契約したのですか?」
ルナが膝の上で小さく手を握りしめ、不思議そうに、どこか怯えるように尋ねる。悪魔と契約を交わすハンターはそれこそ星の数ほど存在するが、特級中位ともなれば話は別だ。一歩間違えれば、その身も魂も瞬時に食いつぶされる災厄の化身である。
そもそも、特級クラスの悪魔が人間ごときと契約を結ぶこと自体が稀有であり、その契約者の数は、歴史を遡っても片手の指に収まるほどしかいないと言われている。
「ハルファスは魔界でも名の知れた大悪魔だ。あやつらが遭遇したのは、まだバビロが若かりし頃……単独で魔界領の深部へ潜入するという、正気とは思えぬ旅の最中だったと聞いている」
オリビアは一度言葉を切り、琥珀色の熱い紅茶を一口含んで喉を潤した。
「ハルファスは珍しい悪魔でな。多くの同族のように、人間を家畜や餌としてのみ敵視してはいなかった。むしろ、生まれも立場も、寿命さえもバラバラな脆き連中が、それぞれに楽しげで、自由に生きる『人間』という種そのものに、奇妙な興味を抱いていたらしい」
「大悪魔が、人間に興味を……?」
すこし、ルナが前のめりに問いかける。
「ああ。ハルファスは銀の鱗を持つ、目も眩むほどに美しき『魔竜』だ。魔界の峻険な山々に引きこもり、自らの縄張りを侵す者以外には決して牙を剥かず、他の悪魔とも群れない孤高の存在であった。……そんな気高き竜と、一人の若きハンターが、極限の死地で剣を交えた果てに何を見たのか。それは私にも分からん」
オリビアは自嘲気味に口角を上げた。その貌には、頂点に立つ者ゆえの孤独が滲む。
「だが、私が弟子だった頃、二人の間に流れる空気は、主従というよりは……そうだな、魂の片割れを見守るような、不思議な絆で結ばれているように見えた。バビロは現在七十歳。二十年前に引退する際、あやつはハルファスを自らの身から切り離し、協会に封印させた。それは悪魔を呪縛から解き放ち、自由にするための慈悲だと思っていたが……」
「違った、ということだな」
リアムの静かな指摘に、オリビアは重く頷いた。
「おそらくバビロは、自分が老いさらばえ、イフリートとの決戦に臨む『その時』が来るまで、ハルファスという最強の手札を温存していたのだ。自分という肉体の器が朽ち果てようとも、ハルファスさえ無事ならば、魔神を確実に仕留められるとな」
列車の汽笛が、吹き荒ぶ雪原の荒野に虚しく響き渡る。
愛する女性を奪われ、呪いを断ち切るために、人生のすべてを捧げたバビロ。その孤高な歩みの傍らには、常に孤独な銀竜が寄り添っていたのだ。
「二十年の沈黙を経て、ハルファスが封印を破って脱走したのは、バビロの切実な呼び声に応えたからに他ならない。……今頃、凍てついた古戦場では、その主従が再会を果たしているはずだ」
オリビアの言葉が結ばれるのと同時に、列車の速度がゆっくりと、確実に落ち始めた。窓の外には、かつて数多の命が散った惨劇の地――『凍てついた古戦場』の入り口が、牙を剥くような氷の岩群と共に姿を現していた。
リアムは立ち上がり、腰の剣の感触を確かめる。
(バビロさん。あなたはどこまで、一人で背負うつもりだ……)
雪原の果て、白銀の闇に待つのは、救いか、それとも破滅か。四人を乗せた列車は、ついに終着駅へと滑り込んだ。
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