第55話 リアムさま、お腹でも痛いのですか?
翌朝。窓の外は、昨晩までの重苦しい吹雪が嘘のように晴れ渡り、透き通った冬晴れが広がっていた。
だが、リアムの事務所に漂う空気は、その爽快な景色とは裏腹に、泥を溶かしたかのように重く湿り気を帯びていた。
「……ううむ……」
リアムは使い古された革製ソファーの深い沈み込みに身を委ね、眉間に深い溝を刻んで唸っていた。その様子を、朝食の片付けを終えたジレッタとルナが、なかば呆れ顔で見守っている。
「リアムさま、お腹でも痛いのですか? それとも、昨夜の調査でお疲れが……。お茶、淹れましょうか?」
「……いや、そうじゃないんだ。ルナ、気遣ってくれてありがとうね」
リアムは力なく手を振った。彼の葛藤の正体は、身体の不調などではない。かつての戦友――いや、天敵とも呼ぶべき女に頭を下げるべきか否かという、プライドと効率の狭間で揺れ動く凄まじい精神的摩擦であった。
バビロが何を狙い、いかなる果てを目指しているのか。それを突き止めるための最短距離は、一つしかない。帝都の軍部と密に連携し、大陸全土を覆う広範な諜報網を掌中に収める人物――ハンターランク第一位、オリビア・フローレンスに頼ることだ。
だが、リアムにとってそれは、煮え湯を無理やり飲まされるよりも屈辱的な選択であった。
(……あいつに頼るのだけは、本当に嫌なんだ。貸しを作れば、後で何を言われるか分かったもんじゃない。一生の不覚、万死に値する……)
「いつまでそうやって唸り声を上げているのよ。見苦しいわね、男らしくないわよ」
業を煮やしたジレッタが、腰に手を当てて発破をかける。
「イフリートの居場所を突き止めることは、バビロさんを見つけることに直結する。そして、今の帝都でその情報を最も握っているのはオリビア様でしょう? 四の五の言わずに、さっさと行くわよ。……ほら、立ちなさい!」
ジレッタに無理やり腕を引かれ、リアムは魂の抜けたような足取りでしぶしぶと腰を上げた。ルナも「頑張りましょう、リアムさま!」と健気に背中を押し、半ば引きずられるようにして事務所を後にした。
◆◇◆◇◆◇
帝都の心臓部。厳重な魔法障壁の光が絶えず微光を放ち、鎧が擦れる硬質な音を響かせる精鋭の衛兵たちが幾重にも陣取る『ハンター協会本部』。その最上階、もっとも空に近い場所にオリビア・フローレンスの執務室は位置している。
本部に到着した三人を迎えたのは、平時とは明らかに異なる、肌を刺すような不穏な喧騒だった。
「急げ! 北東部へ向かった調査班からの伝令はまだか!」
「周辺一帯の魔力濃度を再測定しろ! 一分の誤差も許されんぞ!」
慌ただしく行き交う職員たちの顔には、余裕を剥ぎ取られた焦燥が張り付いている。リアムたちは彼らの波を横目に石造りの階段を駆け上がり、最上階へと向かった。
執務室の巨大な両開き扉の前に辿り着いたその瞬間、扉が内側から怒号と共に勢いよく弾け飛ぶように開いた。
「――だから、軍との連携を最優先しろと言っているのだ! 私の指示を待たず、勝手に現場の判断で動くな!」
凛烈な声を響かせながら飛び出してきたのは、燃えるような赤髪を靡かせたオリビアであった。彼女はリアムたちの姿を認めると、その鋼のような鋭い瞳をさらに一段と険しくした。
「なんだ、こんな非常時に。リアム、貴様をかまっている暇はないと言ったはずだ。そこをどけ、邪魔だ!」
風を切り裂くような速度で去ろうとするオリビア。だが、リアムはその肩に手をかけ、強引にその足を止めさせた。
「待て、オリビア。何があったんだ? この騒ぎ、ただ事じゃない」
「ええい、しつこいぞ! 今は帝都の存亡に関わる重大な事態なのだ!」
「……バビロさんのことで、分かったことがあるんだ」
リアムが放ったその一言。それが、オリビアの動きを呪縛のように凍りつかせた。彼女はゆっくりと、緩慢な動作で振り返り、射抜くような視線をリアムの瞳の奥へと注ぎ込む。
「……バビロだと? 今、確かにそう言ったな」
オリビアの纏う覇気が一変した。殺気にも似た緊張感が廊下に満ち、職員たちが思わず足を止める。彼女は周囲を払うように一瞥すると、地を這うような重い声音で語り始めた。
「……ハンター協会が管理する、最深部隔離層。二十年前から誰とも再契約を結ばず、ただ静かに沈黙を貫いていた『特級中位』の大悪魔が、数時間前に脱走した」
「特級中位の悪魔が……?」
ジレッタが喉を鳴らし、息を呑んだ。
それはネイスが使役したあの死神すら凌駕する、文字通り一国を灰燼に帰しかねない災厄の象徴に他ならない。
「その悪魔が、最後に契約を結んでいた相手が誰か分かるか。……バビロだ。あの男が二十年前に引退した際、その身から切り離し、協会に管理を委託したものだったのだ」
オリビアの話を聞き、リアムの脳裏で散らばっていた点が一つの線に繋がった。
四百名の死刑囚、実体化したイフリート。そして、管理されていたバビロの元契約悪魔の脱走。これらすべては、バビロという男が仕掛けた生涯最後の大博打における、緻密に計算された駒に過ぎなかったのだ。
リアムは、自分たちが辿り着いた結論を、簡潔に、しかし克明に伝えた。バビロの過去。愛した女性セレスティーナと、彼女を奪ったイフリートの呪い。そして、その呪いを永遠に断つために魔神を実体化させたという、狂気と忠義が入り混じった討伐計画。
話を聞き終えたオリビアは、しばらくの間、言葉を失ったように無言で天を仰いだ。その拳は、爪が掌に食い込み、白くなるほどに固く握りしめられ、微かに震えている。
「……あの、救いようのない頑固者めが。二十年という歳月が過ぎてなお、貴様はまだ一歩も前に進んではいなかったのか」
オリビアの声は、これまでに聞いたことがないほどに掠れていた。
かつてバビロの門下で剣を学び、彼を追い越して頂点に立った彼女。その瞳には、いつもの冷徹な強者の輝きはなく、ただ一人の不器用な師を案じる、弱き人間としての揺らぎが浮かんでいた。
「たった一人で抱え込みおって……。死に場所を探しているのか、それとも本当にその手で救いをもぎ取ろうとしているのか……。どちらにせよ、あの男らしい、最悪で、最高に不器用な生き方だ」
オリビアは一度、肺の底から深く息を吐き出すと、鋼の仮面を被るように凛々しい表情へと戻った。だが、その眼差しには、先程までの拒絶ではなく、リアムに対する微かな『信頼』の色が宿っていた。
「リアム。情報の提供に感謝する。……軍と協会の総力を挙げ、脱走した悪魔の痕跡を追う。悪魔は契約者であったバビロのもとに向かうはずだ。そして、バビロを見つけることこそが、イフリートの核を叩く唯一にして最後の好機となるはずだ」
彼女は再び歩き出し、去り際にリアムの目を見て、引導を渡すような言葉を投げた。
「貴様も、直ちに準備をしておけ。……あの男に幕を引くのは、私か、あるいは貴様の役割だ」
オリビアの背中を見送りながら、リアムは腰の鞘を強く握り締めた。
窓から差し込む冬の陽光は、これから始まる熾烈な戦いの火蓋を告げるように、三人の影を長く、深く引き伸ばしていた。
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