第32話 リアムさまはずっとルナの隣にいてくださるんです。
帝都の目抜き通りは、雨上がり特有の光を反射して輝いていた。
華やかなショーウィンドウが並ぶ一角で、ジレッタとルナは、先ほど購入したばかりの可愛らしい刺繍入りのハンカチを手に、お洒落なテラス席のあるカフェへと腰を下ろした。
「ふう、少し歩きすぎたかしら。でも、良い買い物ができたわね。ルナ、そのリボン、本当によく似合っているわよ」
「えへへ、ありがとうございます! ジレッタさんに選んでいただけて、凄く嬉しいです」
差し出された温かいカフェオレを一口飲み、ルナは幸せそうに目を細めた。ジレッタはその無垢な横顔を見つめ、ふと思い立ったように、ずっと気になっていた質問を投げかける。
「ねえ、ルナ。差し支えなければ教えてほしいのだけれど……。貴女とリアムはどうやって出会ったの? あんなに不愛想で、でも時折信じられないほど優しい目をするあの男と」
ルナの手が止まった。彼女はカップを見つめ、遠い記憶の海を覗き込むように、静かに語り始めた。
「……ルナの最初の記憶は、冷たくて、真っ暗な路地裏でした」
◆◇◆◇◆◇
——五年前。
自分が誰なのか。なぜここにいるのか。
目覚めた時のルナには、それらを証明する術が何一つなかった。名前すら思い出せない。ただ、言葉の記憶だけが脳の隅にこびりついていた。心には、冷たい風が吹き抜けるような、ぽっかりとした巨大な孤独の穴が開いている。それだけだった。
訳も分からず、ただ温もりを求めて夜の街を彷徨っていたとき、その『光』は現れた。
炎のように赤い髪、そしてすべてを見透かすような鋭い紅蓮の瞳。白い軍服を完璧に着こなした女性――オリビア・フローレンスが、そこに立っていた。
「貴様、何者だ。なぜそこにいる」
問いかけられたが、答えられなかった。ルナが言葉に詰まり、怯えたように一歩後退りした瞬間、オリビアの瞳に冷徹な『正義』の火が灯った。
「……無垢なふりをした野良悪魔か。害獣に情けは無用。人類の安寧のため、ここで灰になれ」
オリビアが腰の聖剣を引き抜くと、周囲の温度が一気に跳ね上がった。燃え盛る炎を纏った刃が、容赦なくルナへと襲いかかる。
「ひっ……!」
ルナは必死に走った。路地裏を駆け、瓦礫を飛び越えたが、ハンターランク第一位の身体能力から逃げ切れるはずもなかった。すぐさま壁際に追い詰められ、逃げ場を失う。
胸にある、理由のわからない孤独。そして、今まさに命を刈り取られようとしている恐怖。
ルナが震え、固く目を閉じたその時だった。
「――そこまでだ。その剣を引け」
低く、どこか投げやりで、それでいてひどく透き通った声。
オリビアの炎の剣が振り下ろされる直前、鎖で幾重にも巻かれた『鞘』が、その一撃を正面から受け止めていた。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。
当時のリアムは、最愛の契約悪魔アイテリエルを失った心の傷が癒えず、その瞳からは生きる気力が完全に失われていた。自ら死を選んでもいい――そんな自暴自棄な精神状態で街を歩いていた彼は、死に怯えるルナの姿を見て、考えるよりも先に体が動いてしまったのだ。
「……貴様、何者だ。野良の悪魔を庇うのは帝国の法において重罪。即刻、処刑の対象となるぞ」
オリビアの警告。だが、リアムは引かなかった。死を恐れていない男の瞳は、第一位の威圧を真っ向から跳ね返した。
「……勝手にしろ。むしろ死ねるのなら本望だ。……だが、この子は渡さない」
交渉の余地なしと判断したオリビアが、再び地を蹴った。
そこからは、人間同士の戦いとは思えぬ、神速の攻防が繰り広げられた。
オリビアの放つ炎の斬撃が、路地の壁を溶かし、夜を昼間のように照らし出す。それに対し、リアムは剣を抜くことすらせず、鎖の巻かれた鞘のまま、最小限の動きですべてを捌ききっていく。
「なぜ抜かない! 私を愚弄するか!」
激昂したオリビアが、最大火力の突きを放つ。大気が爆ぜるような轟音と共に放たれた一撃を、リアムは鞘を盾に受けるのではなく、滑らせるようにして受け流し、オリビアの懐へと潜り込んだ。
「――っ!?」
鞘の先端がオリビアの喉元でピタリと止まる。
オリビアは困惑した。契約悪魔も連れていない、死に損ないのような少年が、現役最強である自分と対等以上に渡り合っている。
沈黙が流れた。
リアムの背後でガタガタと震える名もなき悪魔を見て、オリビアはふっと剣の炎を消した。
「……認めよう。貴様の実力、そしてその意志。だが、野良の悪魔をそのまま放っておくわけにはいかん。……提案だ。その悪魔と貴様が契約し、貴様自身がハンターとして『管理』に責任を持つなら、今回の件は見逃してやる」
リアムは一瞬、嫌悪感を顔に出した。ハンターなんて、もう二度となりたくない。そう思っていた。だが、ふと振り返った時、ルナの桃色の瞳と視線が合った。
その瞳に宿る、底知れない孤独。
それは、かつて彼が救いきれなかった、『世界で最も孤独な悪魔』の面影と重なった。
「……わかった。俺が、この子と契約する」
それが、すべての始まりだった。
リアムは震えるルナの手をとり、静かに告げた。
「今日から君は俺の契約悪魔だ。……そうだな、今夜の月はとても綺麗だから……君の名前は……ルナ。それでいいかな?」
◆◇◆◇◆◇
「……それ以来、リアムさまはずっとルナの隣にいてくださるんです。あの日、あんなに悲しい目をしていたリアムさまが、ルナを名付けてくれたこと。一生忘れません」
ルナは少し照れくさそうに笑い、冷めかけたカフェオレを飲み干した。
ジレッタはしばらく言葉を失い、ただルナの顔を見つめていた。リアムが抱える深い闇と、それを繋ぎ止めたルナという存在の尊さ。
「そう……そんなことがあったのね。リアムも、ルナに救われていたのかもしれないわね」
ジレッタは優しくルナの頭を撫でた。
不愛想な守銭奴と、健気な悪魔の少女。その絆の裏側に、最強のハンターとの死闘と、失われた悪魔への想いがあったことを知り、ジレッタは窓の外の青空を仰いだ。
「さて、しんみりするのはここまで! 次はあっちのケーキ屋さんに行きましょう。リアムへのお土産も買わなきゃね」
「はい、ジレッタさん!」
二人は席を立ち、再び賑やかな帝都の雑踏へと消えていった。
リアムが一人で何を追い、何を見つけようとしているのか。それを信じて待つための、穏やかな休日が続いていた。
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