第31話 えっ、あ、はい! ありがとうございます、ジレッタさん!
貧民街の路地裏から、遺体が発見された廃倉庫、そしてあの呪われた大聖堂跡地まで。リアム、ルナ、ジレッタの三人は、足が棒になるまで帝都の闇を歩き回った。
しかし、あの日、咆哮と共に消失した魔神イフリートの痕跡は、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗に拭い去られていた。
四日目の朝。降り続く細かな雨が、蓄積した疲労に重くのしかかる。
「……三日間、収穫なしね。まるで街そのものが口を閉ざしているみたいだわ」
ジレッタが地図を放り出し、椅子の背もたれに深く体を預けた。リアムは窓の外のどんよりとした空を見つめ、静かに切り出した。
「今日は調査を休みにしませんか。皆、根を詰めすぎています。……俺も少し、知人に会ってきたい場所があるので。一人で行きたいから、今日は自由にしていてください」
連日の強行軍で、ルナの顔にも隠しきれない隈が浮かんでいる。ジレッタはリアムの意図を察し、短く頷いた。
「わかったわ。あんたが一人で動くって時は、何か確信がある時でしょうしね。ルナ、リアムがいない間、私と一緒に買い物にでも行かない? 美味しいお菓子でも食べて、少しリフレッシュしましょう」
「えっ、あ、はい! ありがとうございます、ジレッタさん!」
ルナがぱあっと顔を輝かせるのを見届け、リアムは外套を羽織って静かに事務所を後にした。
◆◇◆◇◆◇
帝都の心臓部、厳重な魔法障壁と精鋭の衛兵に守られたハンター協会本部。その最上階に位置する執務室は、常に張り詰めた緊張感に満ちている。
そこは現役ハンターの頂点、ランク第一位に君臨するオリビア・フローレンスの居室だ。
重厚な扉を押し開けると、そこには軍服を思わせる機能美を追求した白い衣装に身を包んだ、美しくも力強い凛々しい女性が立っていた。燃えるような赤髪、そしてその赤い瞳は鋼のような鋭い光を湛えている。
「……何の用だ、リアム。貴様がこの場所を訪ねるなど、五年に一度あるかないかの珍事だな」
オリビアは卓上に積み上げられた膨大な書類の山から顔を上げ、忌々しげにペンを置いた。
「そう言うな。お前の顔を見に来るやつも、そう多くはないだろうと思ってな」
リアムが遠慮なく椅子に腰を下ろすと、オリビアは不機嫌そうに鼻を鳴らした。彼女は任務に対して異常なまでに忠実であり、その冷徹なまでの実力から、協会内でも『鉄血の聖女』と恐れられている。
「ふん。……そういえば、あの『出来損ないの野良悪魔』はどうした? 今日も貴様の背に隠れて震えているのか?」
オリビアの言葉に、リアムの脳裏に五年前のあの夜の情景が過った。
記憶を失い、冷たい路地裏で蹲っていた名もなき悪魔。それを『人類の守護者』としての絶対的な流儀に従い、迷わず討伐しようとしたオリビア。そして、自暴自棄の淵にいながらも、その少女の瞳にかつての相棒の面影を見て、鎖に巻かれた鞘一本で聖剣を止めた自分。
あの激闘の末、オリビアが提示した『契約して管理下に置く』という妥効案がなければ、今のルナはこの世に存在していない。
「ルナは、今はジレッタさんと買い物だ。おかげさまで、今では立派に事務所の掃除と茶出しをこなしているよ」
「……相変わらず甘い男だ。あの時、私が一突きにしていれば、貴様も今頃余計な苦労を背負わずに済んだものを。……まあ、根が優しいのは認めんこともないがな」
オリビアは毒づきながらも、リアムのために手際よく珈琲を淹れた。彼女がこうして自ら動くのは、リアムの実力を、そして彼の過去を深く認めているからに他ならない。
彼女は再び机の上の書類に目を落とし、溜息をついた。
「全く、忌々しい。貧民街の怪異だけでも手に余るというのに、この数日、各地の収容所から凶悪な犯罪者どもの脱獄が相次いでいる。軍も協会も、その事後処理に追われて猫の手も借りたい状況だ」
「脱獄か。組織的なものか?」
「いや、バラバラだ。時期が重なったのは単なる偶然だろうが、おかげで私の睡眠時間は削られる一方だ」
「それは大変そうだが……思い出話と愚痴はここまでにして本題だ。オリビア……貧民街に出た『アレ』の情報を、協会はどこまで掴んでいる?」
リアムの問いに、オリビアの空気が一変した。第一位のプレッシャーが、室内を圧する。
「……断定した。あれは七つの大罪悪魔にも匹敵する、特級上位の魔神――『イフリート』だ。協会は最優先討伐対象として動いているが、出現と同時に座標が完全に消失した。帝都の地下深層に潜んだのか、あるいは誰かが意図的に『隠蔽』したか」
「イフリートか……。やはりな」
「リアム。忠告しておく。あれは一介のハンターが手に負える代物ではない。協会の上層部は、今回の事件にアーベルット家が関わっているのではないかと疑っている。今のところ根拠はないが……あの屋敷の執事、バビロ。あの男にも気をつけろ。奴はかつて『銀鱗の処刑人』と呼ばれた、私と同じ側の人間だ」
オリビアの言葉には、抜き差しならない警告が込められていた。魔神イフリートの顕現。そしてそれを隠匿しうる、巨大な『意思』の存在。
「忠告痛み入るよ、オリビア。……だが、俺も依頼を引き受けた以上、途中で降りるわけにはいかないんでね」
「……勝手にしろ。だが、死ぬ時は私の前で死ね。貴様の死体は、私が一番綺麗に処理してやる」
彼女なりの不器用な情愛を受け取り、リアムは席を立った。イフリートという具体的な脅威。犯罪者の脱獄による帝都の混乱。そして、第一位の武人さえも警戒する『隠蔽』の影。
リアムは独り、再び雨の降り始めた街へと足を踏み出した。その足取りは、これから訪れるさらなる嵐を予感させるように、どこまでも静かだった。
【登場人物】
■オリビア・フローレンス
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