第12章 黒衣の男 ~その弐~
『犀の角のように歩む』・第一部・「縁の発動」 の終了です。
神明山を下りてしまうと、右側から、水が流れ出ている音が微かに聞こえてきた。本部の裏に、山から染み出てくる水を溜めるプールがあることを、思い出した。一昨日の夜見たときには暗くてよくわからなかったので、見てこようと向かうことにする。
3メートルほどの築山を越えると、プールへの水の注ぎ口に、青年部であろう男が立っているのが見えた。躊躇いがあったが、僕は築山を降りてプールへと向かう。
若い男は水を飲んでいたとみえて、コップを持ったまま振り返った。恰幅が良く、顔も丸く、耳を覆う長髪の青年だ。
僕はその青年を見たことがあることに気がついた。青年部の集まりの際に、大きな声で部長の発言にツッコミを入れていた男だ。隊長でもないのに、妙に目立つ青年だ。
「飲むか?」
僕を認めた青年は、いきなりコップを差し出してくる。
「飲めるのですか?」
「もちろん。この聖なる山から染み出してきた水だぞ。飲んでみろ」
始めて会ったにもかかわらず、男は親しみと厚かましさを表して、僕に促す。
「でも……汚くないですか?」
「……え?」
雑菌とか不純物が気になって僕は訊いたのだが、男は面食らった顔をした。
「お前は……どこに住んでいるんだ?」
「名古屋ですけど……」
「それなら、騙されたと思って、飲んでみろ」
男は僕の手にコップを押し付ける。
あなたが口をつけたコップだし、と太いパイプから押し出されてくる水で丁寧に洗い、コップに水を満たし、持ち上げてみる。
コップの中で、細かい泡が暴れている。徐々に澄んできたので、僕はゴクッと一口飲んでみた。
冷たい水が一気に喉元を下っていく。なんら引っかかることもなく。すると、身体の隅々にまで清らかな熱が伝わるのが感じられた。
「あっ!」
思わず声をあげてしまった。ムチャクチャ美味しいのだ。驚いてしまった。水が美味しいということに。
「だろう! 美味しいだろう」
男は満足そうな顔をする。
「美味しいです! なんか、信じられないっていうか……」
僕は感動して、もぐもぐと口籠ってしまった。残りの水を一気に飲んでしまう。
とても滑らかなのだ。素直に身体に染みていく。味が感じられないのに、美味しいと思ってしまう。これは舌ではなく、身体が美味しいと感じていることなのかと。
「これが清水だ」
「え? しみず?」
「そう。清水、ありふれた言葉だけれど、本物の清水なのだよ」
「本物の清水……」
「山から染み出てきた水。人間は、これを飲んでいたのだぞ。お前はさっき、汚くないかと聞いたけれど、山から染み出した水は、それは色々なものが混じっているだろう、ひょっとすると雑菌も入っているかもしれないよ。そういう点では、汚いというのかもしれないけれど、だけど、それらを含めて、自然の水なんだよ。生きている水さ。……水道水だと、塩素が入っているだろう、雑菌を殺すためさ、それにより自然も殺してしまっているのだからな……。普段、そういう水を飲んでいるんだよ。自然じゃない水。死んだ水だよ。だから、こういう本物の水を飲むと、身体がビックリするじゃないか」
確かに、いま自分は、〃ビックリした〃、と自覚する。
「本物の水か……」
水に本物と偽物がある、という考えに、おかしみを感じる。
「いいか、よく聞いておくんだぞ。いずれわかるから。綺麗なものは汚くて、汚いものが綺麗なんだよ」
「え? どういうことですか?」
「だから、いずれわかるって」
男はそう言い、どや顔を見せ、行ってしまおうとした。
「あの……」
その背中に語りかけようとしたら、男は振り返り、
「ああ、おれは、福森和宮というんだ」
と、自己紹介した。
フクノモリ……?
「そう。オヤジは、副教主さ」
どうだといわんばかりに言い、男は行ってしまった。
僕は自己紹介しようと話しかけたのだが、タヌキオヤジの息子は僕の名前を聞くこともせず、自分の紹介だけをした。
僕は母と一緒に食堂で朝食を取った。開くと同時に入ったため誰もいなく、青年部の面々からからかわれることもなく、食事を終えることができた。
食堂を出ると、「挨拶に行きましょう」と母が言い、二人で本部へと向かう。
母に続いて本部のロビーへと入る。母はすぐ二階へ上がり、教祖のおられた部屋のドアをノックした。
返事があり、母はドアを開き中に入っていく。僕も続いて入った。
福森が教祖の椅子に座っていた。紫の袴に白い羽織の出で立ちで。早朝から執務を執り行っているということで、実質、この部屋の主人だという雰囲気を醸し出している。
朝の挨拶を済ますと、二人にソファーに掛けるようにと手で示す。福森も椅子から立ち上がり、僕と母が並んで腰かけた向かいにドカッと座った。
母は、今朝帰る旨と感謝の言葉を伝えた後、「彰さんの寝室は?」と質問した。
「この上だよ。いまでもベッドが置いてある。……その部屋で亡くなられた。それからは誰も入っていない」
福森は天井を指さし、説明した。
「一人で寝られていたのですか?」
「……そうだ」
福森は、含みのある肯定の仕方をした。
「福森さんも看取られたのですか?」
「私と教主様の二人だ。……ああ、そうだ。何も言われなかったよ。よく訊かれるのだが、彰様は亡くなる直前、何も言われなかった。穏やかに逝かれましたよ」
必ず訊かれると、福森は念を押す。
「いきなりってこともあったけどな……。急に胸の痛みを訴えられて、そのまま天に還られた……。聞いているかどうかしらないが、彰様は晩年、よくお酒を飲まれていらっしゃって……。もともとお酒の好きな方だったが、ここへ閉じ籠もってからは、朝から飲んでいることもあって、一日中、酔っぱらっていたこともあったから……」
僕には始めて聞く話だ。母は知っていたかどうか気になったが、表情に表さず聴いている。
「二日酔いの薬を飲んでは、またお酒を飲んだりして……。信者の前に顔を見せることもなくなったし、家にも帰らず、ここにずうっと一人でおられた……」
両腕を組み、渋い顔をして話している。
「鬱々とされていたのだな……。ある意味、駕籠に閉じこめられた鳥のようだったのかもしれない。それで、憂さを晴らすために、飲んでおられたのだろう」
「そうですか……」
母はちょっと俯いて、応える。
「松本の本部な、君もいたから知っているだろうが……二階の奥に倉庫があって、段ボールが積んであるようなところに寝られていたからね……。それが良いって、喜んでおられたから……。あの自由さを懐かしんでおられた……」
感慨深く語り終えた福森は腕を解き、僕を見つめる。
「君は、来年高校なのか?」
僕が、そうです、と答えると、青年部は? と尋ねてきた。「迷っています」と答えようとしたら、母が先に応えてしまった。
「この子には、普通の高校生活を送らせたいので、青年部には入れません」
「……そう?」
福森は意外そうな顔をする。
「そういうことです」
福森は母の真意を探るため見つめていたが、フッと視線を解いた。
「福森さんにも息子さんがおられるのでは?」
母は視線を離さず問いかける。
「ああ……。上は会社勤めをしているから、まったく教団には関わらないようだ……。下は、大学生で、青年部に入っているが、どうだろうか……」
やる気満々ですよ、と言おうと思ったが、止めた。
「そうそう。これも聞いているかどうか……3年後の聖天10周年祭で、妃那之様が正式に教祖を継がれることになる」
母は軽く頷く。
「これで、教団も安泰だということだ」
と言い、福森はなぜか僕の顔を見た。そして微笑んで見せる。
「まあ、君の耳にも入っていただろうけれど……人は色々なことを言う」
福森は弱ったような顔をして、母に話しかけた。
「うちはカルトではないのだよ。これだけははっきりしている。君もよく知っているとおり……」
ここで福森はガラスケースに目をやる。母が昨夜見つめていた写真がある。
「彰様はこだわりのない人だった。なさすぎるといってもいいくらいの人だったからな……。これといった教義も持たず、思想というか、持論を語るだけの人だったよ。それだから、私は、色々な教義を持ち込んだのだ。それでなくては、教団の名目を保たせることが出来ないからな。宗教法人の資格を得ることもできない。何より信者のことを考えてさ」
福森は笑顔を消す。
「大井が教団の形を作ってくれたのはいいが、中身が何にも無いのだから。信者を募ったのはいいが、何を教えるのだよ。彰様は、あいかわらず、わからない話をされるだけだ。……宗教は教義だからな、現世救済の業が必要なのだから。困っている人たちが来られるのに、なにも救う業がないのだからさ……。そのうえ、作った本人はパッといなくなってしまっただろう。中野君も、君と一緒に名古屋へ行ってしまった。まあ、こんなことは言いたくないが……どうやって本部を保たせたらいいか、ずいぶん苦労したよ……。あの頃、信者がずいぶん辞めていったからな……。幸い、山根は経営コンサルタントをしていたくらいだから、教団の経理をしっかり護ってくれて、組織が崩れることはなかったけれどな。……ああ、それから、西条が若い者を纏めてくれたから、それもありがたかった。細野も、何も言わないけれど、婦人部を纏めてくれたし。それがあって、現在があるのだから。ようやく安定してきたのだからさ。大変だったけどな……」
要は、掻き回してくれるなと言いたいのだ。
「人は色々言うのだよ。ここだけの話だけれどな。君だから話すのだよ」
福森は母を指さした。
「私に教祖を継いでくれ、という者だっていたのだから。だけど、私は断っているのだ。そんなことをすれば、教団が割れてしまう。それがわかるから。私は教団のことを一番に考えているのだ。……だから、あと3年、妃那之様が継いでくださるまで、なんとか頑張ろうと思っていますよ」
言葉だけとれば、『いい奴じゃないか!』と、タヌキオヤジを見直した。
ただし、母は黙って聴いていただけで、頷きもしなかったが……。
部屋を出て階下へ降りると、山根が事務室から顔を出して、母を手招きした。母は立ち止まってしまう。戸惑っているのだ。
「ちょっといいかな、入ってくれる」
山根はそう言い、事務室に引っ込んでしまった。
母は僕に顔を向けて、少しだけ顔を顰めてみせる。言葉にすれば、「困ったわね」と。
少しの躊躇い後、母は一人で事務所に入っていった。僕には用はないだろうと玄関へ向かおうとすると、「君も入って」と、山根がふたたび廊下に顔を出して、僕を呼んだ。それで事務所に入っていく。
「座って」
事務所には、端に大きな机が置いてあり、他に、事務机と椅子がいくつか配置してある。それらの椅子のうち、どれでもいいから座るようにと、山根は指示した。
「帰るところだったのでしょう。忙しいところをごめんね」
椅子に腰掛けた二人の前を、行ったり来たりしながら、山根は話し始める。
「尋ねたいことがあってね……」
和服に白い袴を着けた長身の山根は、どう切り出そうかと迷っているようだったが、「うん」と唸り、僕の前に立ち止まった。
「手紙なんだけど……研修所の金庫の中にあるのだよね?」
「手紙ですか?」
「そう。彰様からお父さんへ送られた手紙ね」
「はい。あると思います」
「……思う?」
「何年も行っていませんので」
「ああ……そういうことね」
山根は顎に手をやり、ふたたび歩き出す。
「じゃあ、金庫から出すことは、できるのかな?」
山根が真剣な表情で僕を見つめたので、少し怖くなってしまう。ちゃんと答えないと、ここから帰してもらえないかもしれないと。
「そのことでしたら、研修所の所長にお尋ねになれば」
僕に助け船を出すように、母が代わりに答えた。
「そうだよね。当然、そうなります」
山根は、今度は母を見つめ、人差し指を軽く振る。
「誰だったかな……」
「岩村さんですけど」
知らないはずはないのにと、訝りながらも答えた。
「そうだった。あのでっかい人だ」
山根はそう言うと、ちょっと待ってね、とこちらに座っているよう指示し、大きな机の上にある名簿を見ながら、受話器を持ち上げる。僕たちを待たせたまま、電話をするようだ。
「家津羅会の山根です」
相手が電話に出たので、山根は話し始める。
「昨日はご苦労様でした。お疲れになったでしょう。……実は、お訊きしたいことがありまして……はい。名古屋研修所の、たぶん、祭壇にあると思うのですが、金庫ですね。……はい、そうです、金庫です。は、開けることができますか?」
山根は受話器を持ったまま、僕の方を見つめている。
「ええ、そうです。金庫ですが……。ああ、そうなんですね……ダイヤルね、番号を知らないから……そうですよね。開けられないのですね。わかりました。……いいえ、それだけ確認できればいいのです。はい、ありがとうございました」
山根は用事が済んだとばかり、さっさと受話器を下ろした。
「開けられないって」
彼は僕に答えた。
「お父さんしか、ダイヤルの番号を知らないのだね」
と母に確認し、「そういうことでした」と言った。残念でした、という風にも聞こえた。
ただし、僕は番号を知っていた。3年前までは覚えていた。というのは、父は金庫のダイヤルを回すとき、2桁の数字を、4回声を出して回していたからだ。それはまるで金庫を開ける呪文のように聞こえ、父の背中を見ていた僕は、いつのまにか覚えてしまっていたのだ。だが、3年も経つので、曖昧になってはいるが……。
「それだけを確かめたかったのです。時間をとらせて申し訳なかったですね」
「いいえ」
そう答え、母は立ち上がる。
「でもね……」
山根が腕を組み、首を傾げたので、立ち上がった僕と母は、そのまま動けなくなってしまった。
「福森様はあのようなお方だから、楽観的にできていらっしゃるから何も心配されていないのですが……そういう点では、彰様に似ていらっしゃるんですね、一番弟子でしたから、そうなるのですが……」
回りくどい言い方のため、僕の身体も捻られるようだ。
「心配性の私としては……このまますんなりといくようには、思えないんですね……」
山根は母の顔を正面から捉える。二人は間近に立っていたが、どちらも怯むことはない。
「ええ、きっと揉めるはずです。最悪、二つに分裂することもあるかもしれません」
山根が断言したので、僕は驚いてしまった。
「そのときに、ですね……」
グッと、山根は母を見つめる瞳に力を籠める。
「あなたは、どうなさります?」
母は山根の真剣なまなざしを正面から受けとめる。
「わたしは……」
と言いかけ、フッと微笑む。
「何もできません」
山根は視線を逸らさずじっと見つめていたが、「そうですか……。そうですよね」と、視線を落とし、何度か頷いた。
「どういうこと? どうして、キツネさんはお母さんに質問してきたの?」
「キツネさん?」
玄関のガラス戸を押し開けようとした母はキッと足を止め、僕に顔を振り向ける。
「あっ、山根さんのことだけど……」
僕が戸惑い気味に答えたら、母は、「あはははは」と、弾けたように笑い出した。
僕はビックリしてしまった。辺り憚らず笑う母を初めて目撃したからだ。
「ああ、キツネさんね………。それはね、キツネさんだから、タヌキさんのことが心配なのでしょう」
と、母は可笑しくてたまらなさそうに、答えた。
僕にとって、母が愉快そうにしている姿を見るのは初めてにちかく、僕の気分も弾んでくる。
「帰るわよ」
母は僕に微笑み、ガラス戸を一杯まで押し開ける。
玄関前に、西条が立っていた。
「例祭には来られるのですか?」
母を認めると、開口一番、西条は尋ねてきた。
「来ないわ。しばらくは」
母は微笑んで応える。
「秋の設立祭には来ますから。そのときは、よろしくね、西条くん」
口調は弾んでいて、おまけに名前を呼んだため、西条は、「はい」と少し驚いて答え、あとはポオーと見つめるだけになってしまった。
若きカリスマが……と、呆れてしまうが、母にしてみると味方はほしいので、作戦成功なのだと、納得する。
「じゃあね」と、母は軽く挨拶し、僕を伴って宿舎へ戻っていった。
部屋で荷物をバックパックに詰めているとき、そういえば訊いたことがなかったなと、母に質問してみる。
「お母さんとお父さんは、いつ結婚したの?」
「……はっ?」
同じようにキャリーバックに荷物を収めていた母は、驚いた顔で僕を見る。
「結婚記念日だけど……」
気分を害したのだろうかと、後悔してしまう。
「籍を入れたのは、12月の……終わり頃だった」
以前だったら見つめるだけで答えなかっただろうが、母は作業を続けながらも、答えてくれた。
「1994年?」
「西暦で言われても、わからないけど……たぶんそうでしょう」
幾分不機嫌になった母は、さあ出るわよと、立ち上がった。
荷物を持ち、宿舎の階下へ降りると、藤田が立っていた。
「タクシーを呼んでおきました」
藤田は丁寧に挨拶をする。
「これからも、色々助けてね」
そう声をかけられると、藤田は緊張してしまったように棒立ちになり、「もちろんです」と、頭を下げた。
端で見ていた僕は、分かり易い人たちだな、と呆れてしまったが。
宿舎を出ると、タクシーが停車していて、来るときと同じ運転手が降りてきて、帽子を脱いで深々と頭を下げた。
僕がタクシーに乗り込もうとしたら、
「なかのくぅぅぅぅぅん!」
と、大きな声が飛んできた。声の方へ振り仰ぐと、三階の廊下から、羽根が顔を出して手を振っている。
「また会おぅー!」
彼は大きな声で言ってくる。
「うん。会おう!」
僕も、3階へ向かって声をあげる。大きく手を振りながら。
タクシーに乗り込んだ。母が乗って、タクシーは走り出す。宿舎の方を見やると、藤田と羽根がまだ手を振っているのが見える。
少し走ると、大神殿の大屋根が見えてくる。ふと、妃那之の姿を思い浮かべてしまった。少し甘酸っぱいものが僕の喉元へ上がってくる。もう一度会いたいと、強く願う。
タクシーは駐車場を出て、坂道を下りだした。
帰ったら、さっそくマイにメールを送ろう。
「自分は伏魔殿へ行ってきた」と。「あやうくミイラにされるところだったのだ」と。
マイは何と返信してくるだろうか。メールを出してもいないのに、待ち遠しくなってしまった。
ショウノスケとタケにも今日中に会って話さなければと、焦れったくなってくる。自分は凄い体験をしたのだと、すぐにでも自慢したかった。
だけど、それに対して、ショウノスケの言うことはわかっている。
「ケガがなくてよかったな」と。
タケは、「何で?」と訊く。
そうしたら、僕はショウノスケより早くツッコミを入れる。
「カツラかい!」と。
『縁の発動』・完
『犀の角のように歩む・第二部・アセンション編』に続く
『犀の角のように歩む』・第二部・「アセンションの巻」に続きます。




