第八章 聖少女 ~その弐~
三人一緒に部屋を出たが、母は田中と明日の打ち合わせがあるからと、僕に一人で部屋に戻っているようにと言った。
階下へ降りた。せっかくなので、1階を覗いてこようと、薄い橙色に照らされた誰もいない廊下を奥へと進んでいく。
階段の隣は事務室だ。学校でいうところの職員室みたいなものだと、捉える。その隣に、『書庫』と記された広い部屋があり、ここは家津羅会の図書館かと勝手に決めつける。次にトイレがあり、突き当たりに扉がついていた。
扉の窓から外を覗き、少し躊躇ったが、金属製の重い扉を押し開けて、外へ出てみる。
一気に寒さが押し寄せてくる。建物内へ戻ろうかと迷ったが、左側から勢いよく水が流れ出る音が聞こえてきたため、向かってみることにした。
ポールライトに照らされて、コンクリの壁に囲われた小さなプールがあるのがわかる。山から染み出てきた水を太いホースで導き、溜めているようだ。
水面を覗き込んでみる。深くはないのだろうが、暗いため、底なしのように見えて、怖くなってしまった。急いでその場を離れ、本部の裏側を回って、宿舎へ戻ろうとする。
庭園になっているようで、腰くらいの高さの灌木が植えてあり、小道が造ってある。
ポールライトの明かりを頼りに、僕は灌木の間の小道を歩いていく。真ん中辺りに来ると、広場があり、ベンチが置いてあるのだが、僕はハッとして立ち止まってしまった。
ベンチに人が座っているからだ。薄暗い中、白色に紺のストライプが入ったジャージを着ている女性が座っている。
体つきから女性だとわかったが、肩を覆うくらいに伸ばしている黒髪が顔を隠していて、表情を窺うことはできない。だけれど、どことなく近寄りがたい雰囲気を醸し出していて、足を進めることが出来なくなってしまった。
女性はゆっくりと顔をこちらに振り向けた。10歩ほど離れた先に座っているのだが、その女性の顔を認めたら、息をのまれてしまった。
離れていても、整った美しい顔をしているのが窺えるのだが、それ以上に、見つめることが憚れるような、気品が感じられたからだ。
厳かなオーラを纏っているようにも見られる。明らかに、その女性は誰もが気後れしてしまうような雰囲気を身につけているのだ。
突然、僕は咳の発作に襲われた。不用意に冷たい空気を飲み込んでしまったため、気管が乾燥し収縮してしまったのだ。
激しく咳き込み、ゼーゼーと咽を鳴らしながら、苦しさのため跪いてしまう。なんでこんな時に咳が出るのだと、自分を叱りつけたくなったが、意に反して咳はなかなか鎮まらない。しかも、鎮咳粉を持ってきていない。それに気がつき、空気が吸えづらくなっていく。頭も締め付けられる痛みを発してくるし、息苦しさが増してくる。
ベンチに腰かけていた女性は、音も立てず立ち上がると、僕の方へ歩いてくる。なんの表情も浮かべていないが、こちらを見つめたまま近づいてくる。
僕はみっともないところを見られたくなくて、すぐにも引き返したいのだが、発作のため脳貧血が起き、立ち上がることができない。息苦しさは頂点に達して、今にも失神しそうだ。それにより、心理的にもパニックに陥りそうになっている。
冷ややかに僕を見下ろしていた女性は、片膝を着いてしゃがんだ。
僕は顔を上げる。幾分冷静さを取り戻し、目の前の顔を見詰めてみる。大人だと思っていたが、ふっくらした頬など、幼さを残している顔つきなのに気がついた。
瞳が、まともに目が合ってしまったが、大きな黒目がとても澄んでみえて、スウッと吸い込まれてしまうような気になってしまう。不思議と、息苦しさが止まる。
僕は悟った。この女性が、『妃那之』だと。
目が、瞳にとても力が感じられ、形は似ているとは言えないが、力強さは、教祖・彰と同じだと判断したのだ。また、見つめられると自分を失ってしまうということがどういうことなのか、よく分かる。息が出来づらく苦しいはずなのに、自分の身体に意識が向かないのだ。
「手を出してください」
少し高くて細いのだけれど、とても澄んだ声が僕の耳を擽った。
言われたまま両手を前に出した。そのしぐさを見て、妃那之はクスッと笑った。
「右手だけでいいですよ」
そう言われ理解した。掌充をするのだと。すぐにわからなかった自分が恥ずかしい。
左腕を降ろし右手だけ差し出すと、妃那之は両方の掌で、僕の右手を包んだ。
とても暖かく柔らかい感触が右の掌と甲に感じられる。少しくすぐったくもある。
妃那之はその姿勢で、ゆっくりと瞳を閉じる。それに合わせて僕も両目を閉じる。
真っ暗な中、右手の感触だけ高まり、徐々に熱く感じられるようになってくる。痒さと快さがあり、甘酸っぱいものが胸から喉元に上がってきて、僕はうっとりするような気分になってしまった。
それに伴い、胸の辺りが暖かくなり、内側が柔らかく解されていくような感触を受けた。次第に気管も湿ってきて緩んできたのだろう。咳の発作は治まった。
僕は感動していた。掌充を受けたのは人生で初めてで、それもあるのかもしれないが、こんなにも効果を発するものなのかと。
これなら薬など必要ないのではと思えてしまう。また、この時間がずうっと続いてくれたらいいなと、願ってもいる。とても安心していられるのだ。
唐突に、世界が広がっていく感覚が起きた。
真っ暗な中でも、空間が広がっていくのが感じられる。世界が遠のいていく、自分が限りない空間の中に漂っている。それに伴い、胸の辺りから、もう一人の自分が離れていく感覚が起きた。
身体はしゃがんだままなのだけれど、成虫がサナギから脱皮するように、自分の心が剥がされていくような感触がおきたのだ。
それはとても気持ちがよく、前方にグワッと引っ張られるようである。それに伴い、音が、風が唸る、ゴォォォォー!という音が轟いている。
僕はビックリして目を開けた。突風に煽られたと思ったのだ。
妃那之が僕の真ん前で両目を見開いている。彼女は驚いたようすで僕を見つめている。薄い真っ赤な唇を少し開けて、戸惑ってもいるようにも見えた。
「君は……だれ?」
妃那之は僕の掌を包んでいた手を解き、尋ねてきた。
「僕は……中野といいます」
今日何度目かになる名前を告げた。
「中野くん?」
「はい」
名前を呼ばれたと勘違いし僕が返事をしたら、妃那之は、「うふふ」、と笑った。その涼やかな声を聴き、胸の内にくすぐられるような感触が起きた。
スッと妃那之は立ち上がる。それに釣られ僕も立ち上がってしまった。
少しだけ僕の方が背は高い。ただし、近い距離なので恐縮してしまって、一歩退いた。
「あなたのお父さまは……」
妃那之が語り出す。この人も父のことを知っているのだと、嬉しくなった。
「亡くなられているの?」
探るような訊き方に奇妙なものを感じたが、僕は、「そうです」と、素直に答えた。
妃那之は納得いったように大きく頷く。
「事故に遭われたのね……」
「は、はい……」
どういうことなのかと訝ってしまう。父のことを知っていて尋ねたようではなかったからだ。
「わかりました」
妃那之から親しみが消える。と同時に、威厳が彼女の身の内から滲み出てくる。思わず僕は傅いてしまった。
「明日は、よろしくお願いします」
そう言うと、きびすを返し、妃那之は去っていった。
僕はただ眺めている。小さくなっていく後ろ姿を見送っていると、ある考えが浮かんできた。そして、まさかと!
「こころが読めるの……」
その思いつきは強固なものになり、呆然としてしまい、しばらく突っ立ったままでいた。
第八章 二人のアキラ に続く




