第080話「うげ……」
「うげ……」
牧村知世は声に出さなかったが、思わず口がそんな形になった。昨日からずっと今日をどうやり過ごそうか悩んでいたわけだが、勇者アヤト――もとい、広瀬綾人が初っ端からこちらをじっと見ているではないか。細められた視線に込められた意味を想像すると冷や汗が流れる。
――こちらの正体に気づいたか?
そういえば、何度も蹴りをいれたことを思い出す。そのうち数発は靴先にナイフを仕込んだエグいものもあったが……それはお互い様というか、むしろ敵同士なんだから全身全霊の攻撃は礼儀というか……
「よし! やっぱり帰ろう!」
勉強なんて、誰かに教えてもらって身につくものじゃない。
これまでだって、ずっとひとりでやってこれたし、これからもひとりで大丈夫――
くるりと後ろを向くと、にっこりと微笑む魔王軍幹部の踊り子シセ――ではなく、鷹村美緒と目があった。
「あら? 何か忘れ物?」
彼女は高校3年生で生徒会長らしい。昨日、オリエンテーションの後にそれとなく伝説的マイナー格闘ゲーム『フォークロア・シャドウ・アサルト(略称、FSA)』の話題を振ってみたところ、ばんばん背中を叩かれた挙句に「この広い世界で、こんな小さな同士に出会えるとは!」と熱烈なハグを受けた。まあ、会社ごと消滅したゲームソフトはおろか、存在自体がなかったことにされているマイナーハードまで所持する、いわゆる『クソゲー愛好家』としては、同類に会えて感激する気持ちは痛いほど分かるが……
「あ、いえ。何でもないです」
そのまま、くるりと前を向く。傍目からみたら踊っているように見えるかも。これではまるで浮かれているみたいではないか。
「お! それはアレだね! シェラザードのバックステップからの回転攻撃モーションだね!
あのグリッチ技、私もよく使ってたよ! 相手の飛び武器もすり抜けちゃうし」
「そ、そうです! それです!」
――って、そんなわけあるかい。
何でもかんでもFSAに結びつけて勝手に勘違いしてくれるのはありがたいが、浮かれていると思われるのは心外だ。そして、FSAで思い出した。この学習支援プログラムを受けた後に、模試で良い成績を取れたら、FSA初回限定版のみに同梱されていた『音速のパタスモンキーさん』の限定ラバーキーホルダーをもらう約束を鷹村としていたのだった。ここで帰るという選択肢はやっぱり無しだ。
「となると、問題は……」
ふたたび綾人に視線を向ける。スラリとした高身長で、制服越しでも鍛え上げられた体が一目でわかる。
凛々しく整った顔立ちだが、明るく親しみやすい笑顔が印象的だ。しかし、その瞳はどこか鷹のような猛禽類を思わせる。髪は軽く整えられ、長さも程よく、全体に落ち着いた品格が漂う。その佇まいは隙がなく、まさに物語の中に出てくるような勇者そのものだ。
魔王軍幹部としては、敵意と警戒心が高まるのも無理はないだろう……とか何とか考えているうちに、いつの間にか校門にたどり着いてしまった。後は野となれ山となれ。
腹をくくって目の前に立つ綾人を見上げる――と思ったら、綾人が片膝をつき、こちらの目線に合わせてしゃがみ込んでくれた。
「……」
苛立ちを抑えて、笑顔を作ってみせる。
――身長が低くて悪かったな。こっちはバッキバキに関節が痛む成長期真っ只中だぞ。今に見てろよ。次は絶対に倒す。身長も追い越す。
「改めて……牧村さんを担当する広瀬綾人です。高校二年生です。今日からよろしくね」
その言葉と共に差し出された手を、一瞬躊躇しながら見つめた。
――正体はバレていないって事だよね。
何にせよ、今後の関わり方をしっかり決めるためにも、ここで引くわけにはいかない。
「牧村知世です。小学六年生です。よろしくお願いします」
この夏をどう乗り切るかを考えながら、知世は綾人の手を握り返した。




