第078話「これはニャンコですか? クッションですか?」
「目覚めなさい、尾本よ……尾本コウよ……」
アイマスクを外され、尾本は目を開く。
狭く薄暗い開発室には、全身から淡い光を放つ女神がいた。
「あ、やべ……がっつり寝てた。今、何時? つか、なんで女神様?」
「21時ですよ。夕方からずっとメッセージ送ってるのに既読にもならないし、何事かと思いまして。
ああ、認識阻害結界は発動中ですし、そっちのモニターは絶対に見ませんから安心してください。こう見えてもコンプライアンス意識高い系の女神です!」
そう言って女神はぎゅっと目を閉じ、顔を背けた。
尾本のモニターには一般公開されているドキュメントしか表示されていないが、気を遣わせるのも悪いので電源を落とした。
「すみませんね。十五分だけ仮眠するだけのつもりだったのにな。三十分ぐらい寝てたのか……俺のスマホのタイマー、どうなってんだ?」
「セットだけして開始ボタンを押してないんじゃないですか?
っていうか、それタイマーじゃなくて電卓だし」
「あ、ホントだ。電卓に『15』って入力してる。うわ、何をやってんだ、俺! 面白ぇ~」
「ちっとも面白くないですよ。どうしたんですか?
お仕事は一段落ついたんじゃなかったですっけ?」
「そのはずだったんだけどね。急な案件が納期激ヤバな状態でやってきたんですよ」
「……前にも言いましたけど、外注に頼ってみては?」
「頼めるところには頼んでるんですけどね。問題は、明日の朝から納品なんで、そっちの準備を……あ、いや、違う違う。そっちはもう終わってるんだった。あ、いかん。混乱してるな、俺……もう帰ろうかな……」
「ちょっと落ち着きましょうよ? お弁当を持ってきたので帰る前にここで食べちゃいましょう」
女神はバスケットを持ち上げて見せた。肩には大きな魔法瓶まで提げている。
次の瞬間、その姿が揺らぎ、大学生の星山めぐみへと変わった。
認識阻害結界を使っているとはいえ、食事中に女神姿も落ち着かないと思ったのだろう。
めぐみは広瀬の椅子に座っていた巨大な猫のぬいぐるみを持ち上げる。
「めっちゃ可愛いですね! これはニャンコですか? クッションですか?」
どうやら相当気に入ったらしい。
ぬいぐるみを抱きしめたまま目を輝かせている。
「いや、俺に聞かれましても」
二人は並んで弁当を広げた。
鶏の照り焼きに野菜のマリネ、卵焼き。
ご飯には梅干しが添えられ、魔法瓶からは茸の味噌汁まで出てきた。
「なんか申し訳ない。わざわざ、職場までお弁当を持ってきてもらって……」
「いえ、私が一番心配していたのは、尾本さんがこのままコンビニに行って、高カロリーなお弁当やカップ麺を買ってきてストレスに任せてドカ食いすることだったので、お気になさらず」
「はっはっは、バレてる、バレてる……いや、冗談だから。そんなに怖い顔しないで。それにしても、このお弁当って、ひょっとしてできたて? すっげ~いい匂いがする」
「作ってから三十分ぐらいですかね。今回も自信作です……ん?」
えっへんと胸を張っためぐみが、不意に弁当へ顔を近づけた。
そして周囲を見回す。
「どうかしました?」
「いや、なんか変な匂いがして……酸っぱいというか……尾本さん、ちゃんとお風呂に入ってます?」
「な、なんですと! 言っときますけど、俺はめっちゃ風呂好きですよ! 毎日入ってますって!」
「ならいいんですけど……気のせいだったのかな?」
「そう言われると、なんだか微妙に酸っぱい匂いがするような……
あれかな? なんか疲れてると体から酸っぱい匂いがするとか言いますよね」
「そうなんですか? じゃあ、リフレッシュがてらお茶でも――」
そこでめぐみは「あちゃー」という顔になった。
「今更ですけど、お茶も用意しておけばよかったですね。うっかりしてました」
「お茶ならお客様用のがありますよ。お茶菓子は何かなかったかな?」
尾本は無料開放中の広瀬ボックスを開ける。
「羊羹しかない。俺、苦手なんだけどなー」
「でも、尾本さんみたいなIT業界の人には、ミニ羊羹っていいかもしれませんよ」
「え? そうなの?」
「はい。糖分は脳のエネルギー補給にはぴったりです。特に頭が疲れている時は、少し甘い物を取ると集中力も上がりますしね。それに小豆には食物繊維やポリフェノールなんかが含まれてます。そうは言ってもダイエット向きのお菓子ではないですけどね。まあ、少しぐらいならセーフかな、と」
「おっ! さすが栄養学を学ぶ学生さん。それで、思い出した。今日の中間テストはどうでした?」
「今日の『調理実習Ⅰ』のキャベツの千切りと、『統計基礎』と『解剖生理学Ⅰ』は手応えありです!」
「さっすが!」
めぐみにハイタッチを求められ、尾本は少し照れながら応じた。
大学生のノリはおじさんには少々気恥ずかしい。
「明日は食品衛生学とかの専門科目の他に、英語と第二外国語のフランス語があるんですけどね。少なくとも語学系はノー勉でもパーフェクト確実です。完璧すぎて不正を疑われたりしないかという懸念もありますが」
「でしょうねー」
尾本がそう言いながら弁当を平らげたところで、めぐみがじっとこちらを見つめてきた。
「尾本さん……前々から気になってたんですけど、食べるの早すぎ。
それに、ゆっくり食べるのもダイエット効果がありますよ?」
「マジ?」
「ゆっくり食べる事で満腹中枢が働いて少量でも満足感が出てきます。そうなると食べ過ぎも防止できますね」
「まあ、満腹になれば食べ過ぎないのは、分かる」
「ゆっくり食べるって事は、咀嚼回数を増やすって事です。そうする事で消化が促進され、栄養素の吸収率が向上します」
「ふむふむ」
「さらに血糖値の急上昇を抑え、インスリンの分泌量も安定します。これにより、脂肪がつきにくい体質へと導かれるわけですよ。はっきり言って、いい事ずくめ!」
尾本は自分とめぐみの湯呑みにお茶を注いだ。
「それ、食べる前に言ってほしかった」
「だって、注意する前に食べ終わっちゃうんだもん」
「早く食べてるつもりはないんだけどなー」
「長年の習慣とかでしょうね。でも、悪い習慣ですから意識して直しましょうよ。
そうですね。とりあえず、一口は小さく。そして、一口ごとにお箸を置いてみては?」
「なるほどねー。ちなみに何回ぐらい咀嚼するもの?」
そう言いながら、尾本はミニ羊羹を一口頬張った。
「三十回ぐらいを目安にしましょう。気づいてました? 尾本さんって、いつも四、五回しか噛んでませんよ?」
「うそん。女神様、そんなの数えてたの?」
三十回数えながら羊羹を食べ終えると、めぐみと目が合った。
本当に数えていたらしい。
「うん。羊羹、食わず嫌いだったみたい。意外と美味いわ。あ、女神様もどうぞ。俺が買ったものじゃないけど」
めぐみは栗羊羹を一口かじり、微笑む。
「うん。美味しいですね」
湯気の立つお茶を飲みながら、尾本は小さく笑う。
「まさか、この歳になって食育を受けるとはなあ……」
「私も管理栄養士を目指したり、深夜のオフィスで栗羊羹食べたりするとは予想外でしたよ。これでも異世界の女神なんですけどね」
そう言って、めぐみは茶目っ気たっぷりに肩をすくめてみせた。




