第077話「あいつの変な自己犠牲精神って何なんだろうね」
美波島の小さなイタリアンレストラン。
ボサ・ノヴァのリズムに満たされた店内は、カジュアルで都会的な雰囲気が漂う。大きな窓から見える夕日は、海と空をゆっくりとオレンジ色に染め上げていた。
テーブルに運ばれてきた料理もまた、この店の洗練された雰囲気にぴったりだった。大皿に盛られたカプレーゼは島の特産トマトを使ったもので、甘みと酸味のバランスが絶妙。モッツァレラチーズはほどよく柔らかく、トマトとバジルにオリーブオイルの香りが重なる。
「凄っ! これがトマト? まるでフルーツじゃないっスか!」
トマトを口に運んだ広瀬あかりが素直な感想を漏らすと、向かいに座る仁科翔子は得意げに微笑んだ。
「この店のカプレーゼを気に入ってもらえたなら何より。そういえば広瀬は知ってるかな? トマトって、分類上は果物なんだよ。輸入関税の違いで、トマトが野菜か果物かを裁判で争ったこともあるらしい」
白ワインの香りを楽しみながら、仁科はグラスを口に運んだ。
仁科は背が高くスラリとした体型をしており、細い銀縁のメガネがその凛とした顔立ちを引き立てている。ジャケットを脱いだ姿には、大人の女性らしい余裕が漂っていた。
対して、広瀬は午後にこの島に到着したばかりで、身軽な私服スタイルだ。デニムスカートにリネンシャツというラフな装い。カジュアルで爽やかだが、童顔も相まって余計に幼く見える。
「仁科さん、相変わらず大人っぽいし博学っスね」
「女の子を口説くために雑学ネタを仕入れるのが趣味なんだよ。下心からの浅い知識さ」
「ホンッッッッット、いちいち反応に困るんスけど!」
苦笑いする広瀬の反応を楽しんだ仁科が表情を変え、沈み行く夕日に寂しげな瞳を向けた。
「――なんか、悪かったね。いや、謝るべきは尾本に対してかな?」
「仕方がないっスよ。そもそも今回の件は仁科さんの責任じゃないし」
「そう言ってもらえるとありがたいんだけどね。ただなあ……」
しばしの沈黙が流れた。仁科は視線をワイングラスに向ける。そこに映っているのは、夕日に朱く照らされた仁科の浮かない顔。どことなく焦点が定まらない瞳は、揺れる彼女の心を映しているようだった。
「尾本先輩のことっスか?」
「自己犠牲精神っていうのかな。あいつ、昔から『自分が我慢しておけば全てOK』みたいなところがあってさ。そのくせ飄々として、ふざけた態度ばかり。そんなんだからみんな甘えたがるんだよ。そして、それを知っている私が『広瀬を貸してくれ』って無茶振りしたことが情けなくてさ」
仁科は吐いた弱音の代わりに、ワインを一気に飲み干す。
「尾本先輩って、鈍いんだか鋭いんだか謎なところがあるけれど……
仁科さんには負い目を感じてほしくないって本気で思ってるはずです。そういうの、あの人は苦手っていうより嫌がるから。それよりもただ純粋に仁科さんに喜んでほしいんじゃないかなって――」
つい、いつもの口調を忘れ、広瀬は尾本を語ってしまっていた。そして、そのことに仁科が驚いた顔をしたのに気づき、広瀬は窓の外のオレンジ色の海に顔を向ける。その頬は夕日に赤く染まっていた。
「お姫様、ずいぶんと尾本を理解してるじゃないか」
「そんなことないっスよ!」
気まずそうに頬杖をついたちょうどその時、二人のテーブルにシーフードのリングイネが運ばれてきた。たっぷりのムール貝、イカ、エビが絡んだリングイネがテーブルを彩り、トマトソースと魚介の芳ばしい香りが湯気とともに立ち昇る。
「仁科さん、これも美味しそうっス!」
広瀬がフォークを伸ばしながら話題を変えようとした瞬間――
「ねえ。あいつの昔のオンナの話、聞きたい?」
ふふ、と仁科が広瀬の反応を楽しむように微笑む。
広瀬は驚きと興味の混ざった表情を浮かべた。
「ちょっ――! あのおっさん、非モテの人じゃなかったんスか?!」
「広瀬が入社するちょっと前に別れてたね。あれも尾本らしい話だったよ。例の『自分が我慢しておけばOK』を遺憾なく発揮して破局。あいつの変な自己犠牲精神って何なんだろうね」
「ちょっ! も、もうちょい詳しく元カノの話を教えて下さいよ!」
微笑みながら、仁科がもぐもぐとパスタを頬張る。
明らかに返事を焦らす顔だ。広瀬は思わず頬を膨らませる。
「教えてもいいけど部屋に戻った後の二次会でね。ところでお酒を飲んじゃった。運転よろしく」
仁科はほろ酔い加減の笑顔を浮かべながら、車の鍵を広瀬の前に置いた。
「いいですけど……私、悲鳴を上げるタイプのペーパードライバーっスよ?」
「マジか。うわ。まーじーかー」




