第059話「あ」
――空気が変わった。
アイリスは無表情のまま、冷徹に戦場を見渡す。
その赤く光る瞳には、もはや感情の揺らぎはない。
薄曇りの昼空が、どこまでも鈍色に広がる。
戦場は荒れ、魔物たちの影が四方に渦巻いていた。
瞳の赤い残光を残し、アイリスの身体が音も無く戦場を駆ける。
近寄る敵を切り刻みながらマスケット銃を抜くと、標的を見ずに引き金を引いた。
アヤトに振り下ろされようとしていたシセのシミターの刀身が銃弾により砕け散る。
「何!?」
完全に不意を突かれたシセの声が響いた。視界の端で、シセが驚愕に目を見開くのが見える。
アイリスはそれを意識することなく、次の行動へ移っていた。
マスケット銃を捨て、腰のサーベルを抜き、そのままシセに向かって投げつける。
その動作には一切の無駄がない。まるであらかじめ決められていた動きのように――
「そんなデタラメな攻撃が当たるか!」
シセが即座に飛び退き、飛んできたサーベルを蹴り上げる。
「敵の行動、予測誤差範囲内。
——戦闘、続行。ワイヤーアンカーを射出」
左腕の篭手からワイヤーが発射され、蹴り上げられたサーベルの柄に絡みついた。
そのままワイヤーを巻き取らず、軌道を変えたサーベルが鞭のようにしなりながらシセへと何度も襲いかかる。
同時に、アヤトの拳が突き込まれ、蹴りが軌道を描く。
アイリスの攻撃とアヤトの猛攻が絡み合い、シセを追い詰めていく。
右手の星詠みの剣——アイリスで、迫りくる魔物たちを切り捨てながらも、左手のワイヤーアンカーが掴んだサーベルがアヤトを援護する。
そして、アイリスの赤い瞳は誰にも向けられず、ただ戦場全体を見つめていた。
「私の未来予測を超えた戦闘をしながら、他の者の相手までするのか!」
シセの余裕が崩れた。追い詰められた彼女は、大きく飛び上がり、一時的に猛攻を回避する。
『よし! いいぞ、アイリス!』
尾本の意識が俯瞰する視点で戦闘を見渡す。
だが——
「あ」
アイリスが、突然ピタリと動きを止めた。
『え?』
「魔力残量4%を切りました。第二スキル【身体制御】の稼働限界に達します。
リミッター発動。
生命維持のため、スキル終了プロセスに強制移行します」
『なんですとー! 待って待って! もう少し頑張って!』
「全魔法回路の接続を解除。
アイリスとの神経リンクを遮断。
身体反応速度の低下を確認。
体温の異常上昇を検知——
緊急冷却プロセスを開始します 5秒前、4、3——」
尾本の視点が背後からシャルルに戻ると同時に、全身から生汗が噴き出した。
《魔力残量3%まで低下。ユーザーによる手動操作を再開してください》
生まれたての仔猫のように、シャルルの足元が震えだす。
「にゃにゃにゃにゃにゃ……」
《第二スキル【身体制御】は正常に終了しました。
第一スキル【先読み】は正常に終了しました。
剣術スキル・ブースト・オフ。
システム・アイリス、スリープモードに移行――
ほんじゃ、後は頑張ってね~! ウチは少し寝るし~!》
糸が切れた操り人形のように、シャルルの身体が崩れ落ちた。
倒れる瞬間、ボンボンが慌てて帽子から飛び出す。
シャルルが倒れこんだのは、最悪の場所だった。水たまりの中に突っ込み、泥水がびしゃりと跳ねる。
全身どころか顔まで泥まみれになったシャルルに魔物たちの影が迫った。
「顔が濡れて……体に力が入らない……」
「どこのアンパンさんですか」
ボンボンが冷静にツッコむ。
「がんばったのに……泥と敵に囲まれてゲームオーバー……惨めすぎる……泥の中……」
カタコトで、シャルルが嘆く。
「あ~も~! なんでそんなに惨めな姿になってるんですか! ほんっっとに今回だけですよ!」
あまりにも無様な姿に同情したボンボンが、魔法の障壁を展開する。
光り輝く防御壁が張り巡らされ、魔物たちの侵攻が遮断された。泥まみれの顔を上げ、シャルルは力を振り絞る。
「魔力残量2%……女神様の同情を誘う作戦、成功……」
「ちょっと! 私の同情ってどういうことですか!」
シャルルは大ぶりに腕を振り上げ、ワイヤー・アンカーを操った。
ワイヤーが掴んだサーベルを勢いよく振り回し、鞭のようにしならせ、シセへ叩きつける。
「魔力残量1%……そしてこれが、俺の、最後の一撃……!」
シセが大きく飛翔する。
「そんな攻撃が当たるか!」
高く跳び上がったシセの紫の瞳に、勝利を確信した光が宿る。シャルルの最後の一撃は
虚しく空を裂き、シセのいた場所にサーベルを突き立てるだけだった。
それを空中から見届け、シセは不敵に笑う。
だが——
泥にまみれのシャルルが、不敵に笑い返す。
それは【Great Anticipation Logic:高度予測能力】に基づく180秒後の予定された行動だった——




