第040話「こんにちは!」
黒森真琴と妹の結衣は、日差しから逃れるように、駅前のショッピングモールへと足を踏み入れた。
瞬間、心地よい冷気に包まれて、少しだけ肩の力が抜ける。
クーラーが効いたこの空間は、外の灼熱とは対照的に快適で、汗ばむ肌もすぐに乾いていく。
しかし、その快適さが真琴の心の重さを軽くしてくれるわけではない。
見知らぬ二人組の若い女性が、バレていないつもりなのか、こっそりとスマホのカメラを自分たちに向けるのに気づく。
そちらに目をやると、彼女たちは驚いたように「きゃっ」と小さな声を漏らし、笑いながら足早に去っていった。
真琴は深く大きなため息をつく。
それを宥めるように、妹の結衣が真琴の腕に手を回し、引きずるようにモール内へ進んでいった。
「せっかくのデートなんだから、もっと楽しそうな顔したらいいのに」
「やめてくれ。結衣のファンに見つかったら面倒だ」
「いや、ちゃんと兄ってオフィシャルでも公開してるし」
「僕を巻き込まないでよ……」
休日くらい家でゆっくりしたかったのに、なぜこんな騒がしい場所にいるのか……
読者モデルをしている妹の結衣は、注目を浴びても平気なのだろうが、自分はただのプログラマーだ。しかも、プログラマーとしてのスキルは中途半端で、後輩の広瀬には才能の部分で及ばず、先輩の尾本のようなマネジメント能力もない。
――言うなれば「見た目だけ」でIT業界を渡り歩いているような男。
真琴は不意に浮かび上がった陰鬱な気分を隠すようにサングラスをかけ、辺りを見回した。
「まるでボディーガードだね」
結衣は可笑しそうに笑う。
妹の結衣は、大学生とは思えないほど洗練された雰囲気を纏っていた。
読者モデル『YUIKO』として活動しているだけあって、その姿はいつも完璧に整えられている。
長く艶のある黒髪は、真っ直ぐに肩を越え、軽やかな風にそっと揺れるたびに、光を反射して柔らかく輝いていた。白いブラウスに、ぴったりとしたスキニーデニムを合わせ、足元はシンプルなスニーカーという夏らしい涼しげなスタイルも、彼女の大人びた魅力を引き立てている。
それでいて時折見せる無邪気な笑顔や甘えた仕草が、彼女の子どもっぽい一面をのぞかせ、その自然なギャップも彼女の魅力となっていた。
「実際、ボディーガードとして来てるんだけどね」
真琴は沈みかけていた気持ちを切り替える。
兄として変な虫がつかないように見張るのが役目だ。
両親はもちろん妹のマネージャーからもそれを頼まれており、最低限の役目は果たさなければならない。
ただし、余計なトラブルに巻き込まれるのはごめんなので、可能な限り早めに帰宅したいというのが本心だ。
しかし、それを知ってか知らずか結衣は組んでいた腕を解いて無邪気にショッピングモール内を走り回る。
「ねえねえ! このジャケットとかお兄ちゃんに似合うんじゃない?」
「僕の服とかどうでもいいからさ。自分の服を選んでよ」
「つれないねえ……」
その時、通りすがりの制服姿の女子中学生たちが結衣に気づき、目を輝かせながら近づいてくる。小さな声で「ねえ、見て。あれ、YUIKOじゃない?」とささやき合いながら、スマホを取り出して結衣を写真に収めようとする。
結衣はそれに気づくと、小さく手を軽く振って中学生たちに営業的な微笑みを向けた。
「こんにちは!」
結衣が気さくに声をかけると、中学生たちは「きゃー!」と歓声を上げながら、興奮気味に結衣の周りを取り囲んだ。
彼女たちが結衣に対して質問を投げかけたり、写真を撮ったりしている様は、まるでファンとアイドルというような光景を思わせる。実際、そうなのかもしれないが。
真琴はその様子を少し距離を置いて見守りながら、心の中でため息をつく。
結衣の人気に圧倒されながらも、真琴の心の奥底には複雑な感情が渦巻いていた。
「結衣は、いつも前向きだよな……」
本人が話題には出さないものの、高校時代には結衣の人気を妬んだクラスメイトとのトラブルもあったらしい。しかし、いつの間にかその問題を本人がひとりで解決したのだと結衣のマネージャーから聞いた事がある。
自分とは違い、困難や自身の内面と向き合う力を持っている妹を羨ましく思い、そして一種の尊敬の念を込めて見つめた。
一方で、これからの自分はどうなっていくのだろうという不安感が押し寄せてくる。
真琴の心の奥底に、『困難を乗り越える力』を象徴する結衣への、畏怖に似た感情が芽生えつつあった。
そして、その感情の芽生えに呼応するように、真琴のスマホに設定された星空の壁紙が再び脈打ちはじめた。




