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第038話「今日はカレーの気分なんだよね」

 牧村知世(まきむら・ともよ)は、自分と父の住むマンションの前で立ち止まり、夏空を見上げた。

 今日も抜けるような青空だったが、その明るさは彼女の心には届かない。


 遠くから子どもたちの笑い声が聞こえる。目を向けると、同じクラスの女子三人組が遊んでいた。

 とくに親しいわけではないが、その屈託のない笑顔が、自分とはまるで違う世界の住人のように思える。


 その感覚に耐えきれず、知世は早足でマンションの中へと駆け込んだ。


 玄関の前で重たい鉄製のドアを押し開け、ランドセルを置く。続いて、買い物袋の中身を確認した。

 袋には鶏もも肉と人参、じゃがいも、玉ねぎが入っている。今夜は肉じゃがにしよう。そして、明日はカレーに作り変えれば手間がかからないし、何より和風チキンカレーになって美味しい。


「おかえり。悪いね、買い物まで頼んじゃって」


 玄関のドアが閉まる音を聞きつけたのか、父の涼一が自室から顔を出した。


 癖っ毛に加えて寝癖で爆発したような髪。フリーランスのプログラマーとして働く父は、昨夜も一晩中パソコンに向かっていたらしい。

 部屋の中には、香ばしいコーヒーの匂いが漂っている。昼夜逆転で、ついさっき目を覚ましたのだろう。


 ベランダに目をやると、しわくちゃではあるが、洗濯物が干されていた。


「洗濯してくれてたんだね。ありがとう」


 知世は大人びた笑みで父をねぎらった。


「他に手伝えることがあったら言ってね。やっと納品が終わったんだ」


「じゃあ、お風呂掃除をお願いできる?」


 父は軽く頷くと、伸びをしてからのろのろと風呂場へと向かっていく。


 その背中を見送りながら、知世はベランダへと向かった。洗濯物のシワを伸ばさなければ――その時、不意に仏壇の母の写真と目が合った。


「……そっか」


 カレンダーに目をやる。

 今日は、母と自分の誕生日だった。


 ――どうして忘れていたんだろう。


 心の奥に虚しさが押し寄せる。慌ただしい毎日の中で、気づけば「子どもらしさ」が薄れていっている気がする。ため息をつきたくなる衝動をぐっと堪え、知世は小さく頭を振った。


 ――今は、自分ができることをする。それだけでいい。


「お母さん、お誕生日おめでとう」


 母の遺影にそう声をかけて微笑むと、知世は強い日差しの中に出た。


 夏休みが始まる。中学受験は、この夏が勝負。

 なんとかしないと。自分にできることを考えなくては。

 あの人のために。少しでも力になるために。


 知世は洗濯物のシワを伸ばしながら、ふと魔王の儚げな横顔を思い浮かべていた。



 * * *



 広瀬家のリビングには、夕日の柔らかな光が差し込み、カーテン越しに揺れる庭の木々の影がリビングの床に映っていた。クーラーが効いているはずなのに、どこか蒸し暑さが残る。


 広瀬綾人は玄関で靴を脱ぎながら、「ただいまー」と声を上げた。

 廊下を抜けてリビングに入ると、そこにはソファでぐったりしている姉――あかりの姿があった。スーツ姿のまま、巨大な猫のぬいぐるみを抱え込み、顔を深く埋めている。その様子は、まるで拗ねた子どものようだった。

 

「あれ? 珍しいね。姉ちゃんが僕より先に帰ってるなんて。しかも金曜日に」


 綾人の声に反応し、あかりはぬいぐるみに埋めていた顔を少しだけ上げる。疲れの色が滲む表情で、ぼそりと呟いた。


「おかえり……

 やっと面倒な仕事が終わったの。あとはタイミングを見て納品するだけ」


 そういう割には、浮かない顔をしている。綾人はソファの向かいに座ると、姉の顔を覗き込んだ。


「その割には浮かない顔してるように見えるけど?」


「仕事の終わりが見えたと思ったら、明後日から2週間、絶海の孤島でお仕事することになっちゃった」


 あかりはぐったりとため息をつくと、再びぬいぐるみに顔を埋める。足をばたばたとさせながら、駄々をこねるように続ける。



「行きたくない! 働くのはいいけど、2週間も本部から離れたくない!」


 その様子に、綾人は思わず笑みをこぼした。


「ふ〜ん、プログラマーって出張もあるんだね。

 てっきり一日中キーボードを叩いてるだけだと思ってたよ」


「本来なら、その認識で合ってるはずなんだけどね……」


 あかりが猫のぬいぐるみを抱え、体を起こす。


「弱小ベンチャー企業のSIerエスアイアーなんて、こんなもんよ」


 そう言って、あかりは大きくため息をついた。


「ところで、晩ご飯はどうする?」


「お母さんが作り置きとかしてない?」


「ご飯だけ炊いてあった」


 母も仕事をしており、金曜は帰宅後に習い事に行っている。夕飯を作り置きしてくれることもあるが、毎回というわけではない。


「しょうがないなぁ。なんか作るから、ちょっと待ってて……」


 あかりが立ち上がろうとすると、綾人がすかさず制した。


「いいよ、僕が作るよ。珍しく早く帰ってこれたんだから、姉ちゃんはゆっくりしてたら?」


「あれ、今ってテスト期間中じゃなかったっけ?」


「期末試験なら今日で終わり。それに、今回はそれほど疲れてないんだよね」


 どういうわけか、ここ2日ほどウルファジムの時間の流れが極端に遅い。

 おかげでテスト勉強にもしっかり集中できたのだった。なんとか総合成績で学年10位には入れそうだ


「そういうわけで今夜は僕が作るよ。まあ、たいしたものは作れないけどね。何が食べたい?」


「できた弟だこと……ん〜と、そんじゃカレーかな?

 今日はカレーの気分なんだよね」


「奇遇だね。僕もそんな気分だったんだ。シーフードカレーでもいい?」


 南エンサリア砦の中にある街をシュラウザーに案内してもらい、市場へと足を運んだ。あの砦は背面を海に面しており、港町のような活気があった。市場に並んだ新鮮な魚介類はこちらの世界のものと同じだった。


 海の香りと異世界の風景が、不思議と現実の風景に重なる錯覚。そのとき、家に帰ったらシーフードカレーを食べようと心に決めたのだった。


「カレーなら何でもいいよー」


「そんじゃ、ちょっと待ってて。確か冷凍庫にシーフードミックスがあったはず」


 綾人は冷蔵庫の中身をチェックしながら、カレー作りの流れを頭の中で思い描く。時短でいくなら、カレーに入れる野菜は玉ねぎとマッシュルームだけにしよう。じゃがいもはポタージュスープにする。電子レンジとハンドブレンダーを使えば、同時進行で作れるはずだ。


「うん。30分もあれば、4人分2品なら作れるかな。その間にお風呂を済ませてきたら?」


 あかりはソファにもたれかかり、じっと綾人を見つめたあと、軽く息を吐いた。

 感心したような、それでいて呆れたような表情だ。


「なんというか……ほんとに我が弟ながらすごいわ」


「いやいや、カレーくらい誰だって作れるでしょ」


「そうじゃなくて日頃の話というかね。身内のひいき目を抜きにしても、綾人って完璧人間だわ。

 優しいし、明るいし、勉強もできるし、スポーツ万能だし……

 逆に何だったらできないわけ?」


 そう言って、あかりは飾り棚に目をやる。

 つられて視線を向けると、数々のトロフィーや盾が並んでいるのが見えた。絵画、空手、書道、バイオリン――試験前に倉庫に片付けたはずが、両親が引っ張り出して飾ったらしい。


 思わずため息が漏れる。

 銀色のトロフィーばかりが並ぶ中、ひとつだけ金色に輝く空手の優勝トロフィーが目立つ。

 実績としては誇れるものだろうが、大半を占める銀の輝きが、自分の「いまひとつ足りない」という未熟さを突きつけてくるように感じた。


「それこそ身内のひいき目だし、買いかぶりだよ。とくに最近は、自分の未熟さばかり痛感する――」


 ふと、綾人の中で引っかかるものがあった。


「そうだ。姉ちゃん、ちょっといい?」


「ん? 何? 改まって」


 綾人は少し考え込んだあと、真剣な顔で口を開く。


「姉ちゃんって、妹とかいる? 猫耳の」


「弟しかおらんわ。つか、猫耳ってどっかで流行ってんの?」


 あかりは微妙に距離を取るようにソファの端へ寄った。


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