Interlude_02 [ZYPRESSEN]
昭和二十年八月十四日。
夜の帳が静かに降り、南の海から風が吹いてきた。
鹿児島・万世飛行場の滑走路の脇。草に埋もれるように建てられたカマボコ状のコンクリートの格納庫――掩体壕から出た藤村俊介はひとり黙って地面に座る。
隣には、明日の出撃を待つ九九式襲撃機。俊介の搭乗機だった。
尾翼に記された機番と、主翼に装着された250キロ爆弾が、月光にぼんやりと照らされている。
俊介は軍衣の内ポケットから、2冊の小さな文庫本を取り出した。
宮沢賢治の『春と修羅』と『銀河鉄道の夜』。
紙の端は月明かりでも分かるぐらい擦れて色が変わり、風で微かに震えていた。
俊介は『銀河鉄道の夜』を傍らに置き、詩集『春と修羅』を開く。
「ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青空を切る」
小声で呟いた『春と修羅』の一節は、ここ数日の俊介が繰り返し唱えた言葉だった。
京都帝国大学理学部物理学科を志望した理系の青年らしく、事実と論理を大切にする一方で、彼はなぜかこの詩に魅かれていた。
ZYPRESSEN ……糸杉を意味するドイツ語で、「死」を象徴するらしい。それでいて、宮沢賢治は「生命」への象徴や修羅――激しい生への感情の比喩として、ZYPRESSENという単語を使っているそうだ。
そして、青空を切る鳥――南の空に向かう機体の傍にいる自分。それが、何かを暗示しているように思えたのだった。
「俊ちゃん、そがんと班長に見つかったら殴らるっよ」
掩体壕の入口から顔をのぞかせたのは、同じ部隊の安田だった。
風が彼の帽子をかすかに揺らした。
「まあ、オイも持ってきたばってん」
と、少年雑誌の附録らしいボロボロの探偵小説を取り出し、俊介の隣に座る。
互いに小さく笑い合うが、その声はどこか低く重い。
「そい、面白かとね?」
安田が『銀河鉄道の夜』の文庫本に目を落として訊ねる。
「読む? 未完の作品だけど」
『銀河鉄道の夜』は、少年ジョバンニが、友人カムパネルラとともに幻想的な銀河鉄道の旅に出る物語だ。旅の途中で出会う人々や出来事を通して、生と死、自己犠牲の意味を静かに問いかける。
銀河鉄道の旅が終わり、ジョバンニが目を覚ますと、カムパネルラは川に落ちた子を助けようとして亡くなっていたことを知る。
ジョバンニの旅は夢でも幻想でもなく、カムパネルラの死を見送る魂の旅だったことが明らかになる――宮沢賢治が生涯にわたって書き綴り、完成に至らなかった物語だ。
「未完って。そがんと読まされたら、続きの気になって死なれんやん!」
安田は苦笑いしながら俊介を肘で小突くと、急に表情を曇らせた。
「……俊ちゃんは、怖くなかとね?」
俊介は、すぐには答えられなかった。
怖さはあるが、どこか現実味が感じられない。
夜の帳が降りた静かな滑走路。そして、整備兵が灯した微かなランプの光が、まるで銀河に浮かぶ星の駅のようだ。
見送る者ジョバンニと旅立つ者カムパネルラの物語――死と、孤独と、再生の旅。
特攻という名の片道切符に、俊介はそれを重ねていたのかもしれない。
「ぼくはカムパネルラだから」
やっと出てきた俊介の答えに、安田は不思議そうに首を傾げた。
* * *
昭和二十年八月十五日。
空は、朝から青く。そして、透き通るようだった。
万世飛行場の滑走路には、太陽の白い光が容赦なく降り注ぎ、陽炎が揺らめく。
止め置かれた九九式襲撃機の機体は、蒸し鉄のように熱を帯び、触れれば火傷しそうなほどだった。
俊介たちは整列したまま、遠くの地平線を見ていた。
足元では一匹のアブラゼミが仰向けで転がっている。
やがて、滑走路脇のスピーカーから、途切れ途切れのノイズに混じって声が響く。
震えるような、だがどこか静かな声。
「堪え難きを堪え――忍び難きを忍び……」
その瞬間、滑走路の空気が変わった。
周囲の誰もが、身動きひとつ取らずに立ち尽くしていた。
ある者は目を閉じ、ある者はただ俯き、ある者はじっと自分の機体を見つめていた。
俊介の目の前では、自分の搭乗予定だった九九式が、変わらず黙して佇んでいる。
その主翼の下には、行き場を失ったままの爆弾が取り付けられたままだった。
「ぼくは夢の中にいるのか……」
遠くで、整備兵が工具を落とす音がする。
その乾いた音だけが、現実のものとして耳に残った。
* * *
俊介は少ない荷物を抱えて故郷・筑後の地へと戻る。
だが町は、焼け焦げ、何もかもが焼け落ち、黒く、ただ黒く、沈黙の地面へと還っていた。
瓦礫の中に煤けた神社の鳥居を見なかったら、ここがそもそも故郷だったと理解さえできなかったかもしれない。
我が家があったと思しき場所に立ち尽くす俊介の足元で、砕けた陶器の破片がかすかに白く光る。
それは、幼い妹・恵 が使っていた有田焼の茶碗のかけらだった。
そのとき、向かいの畑の方から、煤けた手ぬぐいで頭を覆った年配の女性が足早に駆け寄ってくる。
「俊ちゃん、俊ちゃんね! あんたは生きとったとね!
ああ……よかった……よかった……」
「お向かいのおばさん! それより、うちの両親と妹は――」
「ごめん……だめやった。めぐみちゃんも……三人とも……逃げきれんかった……」
そう言って、手を合わせながら涙を流すその姿に、俊介は言葉を返せなかった。
聞くと、四日前にB‑24爆撃機約百五十機によって町は焼夷弾による襲撃を受けたばかりだという。
「四日……終戦の四日前……」
風が吹いた。心地よさは同じだが、かつて俊介が妹を肩車して歩いた田んぼの畦道の風とは、どこか違っていた。
「ジョバンニは、ぼくだったのか……」
* * *
何処ともなく、俊介は何日も、ただ歩き続けた。
幾度目かの夜が更け、やがて足も体も動かなくなり、名も知らぬ河原の土手で大の字になる。空腹は、もはや痛みではなく、静けさに変わっていた。
見上げれば、降り注ぐような蒼い星が視界いっぱいに広がり、密やかにまたたいている。
――ふいに、銀色を思わせる歌声に混じり、銀河鉄道の汽笛が聴こえてきたような気がした。




