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第024話「あえて言うなら女神パワーです」

 会社を出ると同時に、尾本のスマホに通知が表示された。


『どこにも寄らないでまっすぐ家に帰ってくるように!』


 女神からのメールだ。

 尾本は短くため息をつく。


 ディープワイズ株式会社が入っているテナントビルを出ると、外の湿気を含んだ空気が肌にまとわりついた。七月初旬、夏の気配はすでに濃厚で、ビル街を吹き抜ける風は、ほんのりと熱を帯びており、少し不快だ。それでも、昼が長くなったのは少し嬉しい。なんとなく「早く帰れた」ような気がするから。


 ましてや、今日は定時退社だ。実に素晴らしい。


 振り返って、テナントビルの二階にある開発室を見上げる。

 ブラインドの隙間から、ほのかに明かりが漏れていた。


 広瀬にも今日は早く帰るように言ったのだが……


「やっとキーボードが温まってきたところっス!」


 彼女は目を輝かせながら激しくキーボードを叩き続けていた。

 何か仕事で困っているのかと心配になったのだが――


「これは仕事じゃなくて、自分用の業務支援ツールなのでお気になさらず!」


 つまり、仕事ではなく個人的な趣味が半分といったところらしい。ああなると完全に周りが見えていない。何を言ってもムダだと判断し、そのまま放置することにした。


 ――プログラマというのは、時にこういうものだ。


 没頭した時の彼らの集中力は尋常ではない。彼らが描くコードは、単なるマシンへの命令の羅列ではなく、思想や哲学が具現化された芸術作品なのだ。それを間近で眺められるというのは、この業界にいる醍醐味のひとつだろう。凡才の自覚があるからこそ、彼らの仕事には強く憧れる――


 そんなことを考えながら歩いているうちに、いつの間にか自室の前へたどり着いていた。ネクタイを緩めながらドアを開ける。


 玄関に目を向けた瞬間、違和感を覚えた。

 見慣れない、女性物の小さなスニーカーが揃えて置かれている。


「あれ?」


「おかえりなさい、尾本さん」


 パタパタとスリッパを鳴らしながら奥の部屋から出てきたのは――人間姿の女神フェルネスだった。


 白いブラウスの袖を軽くまくり、膝丈のスカートを揺らしながら、片手にオタマを持っている。その上に紺色のエプロンをつけ、おでこには冷えピタが貼られていた。

 これを『女神』と呼んでいいのかは謎ではあるが、エプロンにはデカデカと『GODDESS(女神)』とプリントされているので、どうやら女神らしい。


「ただいま……そうそう、俺ってひょっとして玄関の鍵を忘れてました?」


「いえ。かかってましたよ?」


「そうなんだ。ああ、よかった……って、よくないわ!」


「ひとりノリツッコミって、私はじめて見ました」


 フェルネスは、夜空にゲンジボタルを見つけた子供のように無邪気な笑顔で言う。


「なんかもう色々と聞くのもアレなんですけど、どうやって入りました?」


「あえて言うなら女神パワーです」


 尾本はため息をつきながら、リビングへと足を踏み入れた。


「もうツッコミを入れる気にもなれませんな。おでこはどうしたんです?」


「ちょっと頭を使いすぎて、冷やしてました。

 そうそう、聞いてください! 同級生から期末テスト攻略法を教わったんです!」


「同級生……それも神様?」


「いえ、普通の人間さんです」


「女子大生を満喫しとりますなー」


「まあ、聞きなさい。尾本コウよ――」


 髪を解いたフェルネスの背後に、ふわっと後光が差す。


「普通に話していいですよ」


 カチリと電源が落ちたように後光が消えた。どうやら本人も面倒くさかったらしい。


「じつはですね。色々と詳細は省きますが、大学の料理サークルに入りまして……

 それと引き換えに、代々そのサークルに伝わるという秘伝のテスト攻略法を習ってたんです。

 あ、ちなみに私のこの姿での名前は〈星山めぐみ〉なんで、話を合わせてくださいね」


「試験対策か。そう言えば、俺も学生時代にサークルの先輩に教わったりしてたなあ。授業によっては先生が面倒くさがってんのか、同じ問題を繰り返して出してたりしてね」


「それです、それ! 去年の問題用紙を、その同級生からもらいました。いやはや、大学のサークル活動などムダだと思っていた過去の自分を戒めたいですね」


 うんうん、とフェルネスは腕を組んで頷く。


 その瞬間――ぐぅっと、尾本の腹が主張した。


 白湯だけでは空腹を満たせなかったらしい。それに、先ほどから室内には炊きたてご飯と味噌汁の香りが漂っている。

 入居以来、一度も使ったことのない対面式キッチンに目を向けると、明らかに使用した形跡があった。


「ちゃんと寄り道せずに帰ってきましたね。えらい、えらい。まあ、監視はしていたんですけど」


「やっぱり監視してたんかい! 会社を出たタイミングでメールが着たから、そんな気がしたんですよ」


「そんなことより、晩ご飯にしましょうか」


「おお、炊きたてご飯とか、いつ以来だろう? 年末に実家へ帰った時以来かな」


「主菜は豚とキャベツの冷しゃぶにしました。副菜はもずく酢と、塩昆布と梅肉で和えたキャベツです。事情があってキャベツばかりで申し訳ないですけど……」


 フェルネスが冷蔵庫からおかずを取り出す。


「いやいや、なんかこう、毎日暑いからこういうサッパリしたの食べたかったんですよね。正直ありがたい」


   * * *


 夕食は普通に美味しかった。少し薄味に感じたが、お弁当の時と比べると明らかにこちらの好みに調整されている。

 それだけではなく、今回は盛り付けにも工夫が見られた。あの時の効率性だけを追求した四角い食材ではなく、今日は色合いのバランスのほか、器の配置にもこだわりが感じられる。やればできる女神だったらしい。


「いただきます」


 食事をしながら今後のことを話し合っていると、女神は湯飲みを持ち上げて静かに言った。


「そうそう。私も旅に同行しようと思ってるんですよね。尾本さんって、ほっといたら何をしでかすかわからないし……

 ただ、そのことが勇者アヤトにバレると色々と面倒なので、私もアバターを使いますけど」


「俺は構わんですが……

 ところで、アヤトくんって大学生ですか?」


「高校生ですよ。2年生ですね」


「うわっ! そんなに若かったんだ! 申し訳なさすぎて胃に穴があきそう……」


「さて、私が旅に同行するもうひとつの理由についても話しておきますね」


 女神は湯飲みを置いて、背筋を伸ばした。


「アヤトが魔王軍の侵攻を防ぎ、シャルルがそれをサポート。その間に、尾本さんがダイエットを進め、3年以内にすべてを解決させる――そういう作戦を立てました。作戦名は『異世界ダイエット』です! 私が徹底的に尾本さんの健康と食生活を管理するので安心してください」


 女神の笑顔は穏やかだが、容赦のない気配があった。


「そうそう。次の土曜に広瀬が女神に会いたいって言ってるんですけど……さすがにダメですよね?」


「ヒロセ? ……別にいいですけど」


 女神は静かに頷いた。声のトーンも表情も変わらない。

 ただ、あまりにも「スン」としすぎていた。


 ――すっげえ嫌な予感がする。


 尾本は小さく身震いした。


 * * *


 フェルネスは玄関へ向かい、スニーカーに足を滑り込ませる。

 食器を片付けようとしたところ、「それは俺がやるんで」と尾本が買って出たため、大人しく任せることにした。


「さて。それじゃあ、私は試験対策をするので部屋に帰りますね。今夜もウルファジムで会いましょう」


「はいはい。あ、ちょっと待って女神様! はい、これ」


 尾本が玄関横のキーボックスから鍵を取り出す。


「鍵?」


「俺の部屋のスペアキーです。なんというか、女神パワーとやらで部屋に入るぐらいなら普通に鍵を使って入ってくださいよ」


「ふむ……」


 受け取った尾本の部屋の鍵をまじまじと見つめる。何か気恥ずかしい気持ちになった。


「それと……ちゃんとダイエットはするんで、こっちの世界での監視は勘弁してください。職場では社外秘の情報も扱ってるので……」


 尾本は少し困ったように笑い、言葉を続ける。


「女神様のことを信じてないわけじゃないんですよ?」


 鍵をもらって少し気分が浮かれていたが、尾本の言葉に現実へ引き戻される。

 正論だ。何も言い返せない。

 シュンとしながら、不意に別の顔が思い浮かぶ。


 素直に謝罪してきた綾人の姿――


「……ごめんなさい」


 頭を下げると同時に、少し神格が落ちる。

 これぐらいの低下で消滅することはないが、なんとなく消え入りたい気分になった。


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