第018話「記憶喪失です」
女神フェルネスが正体を隠して通う大学の学生ホール。
昼休みの時間帯とあって、広々としたホールには多くの学生が集まり、それぞれ思い思いに過ごしていた。
その一角で、フェルネスはノートPCに向かい、ひとりため息をつく。講義内容を把握できぬまま、中間テストが数日後に迫る。
フェルネスの力で戸籍や出席日数は誤魔化せても、肝心の勉強の中身までは誤魔化せない。そして、学内奨学金の維持にはGPA3.0以上が必須。テストでは最低でも平均点が必要だが、今のままでは到底届かないだろう。
「この世界の教育システム、ちょっと厳しすぎるんじゃない?」
ぼやきながらも、フェルネスはキーボードを叩き続ける。
「えっと……あの……」
フェルネスは眉をひそめ、顔を上げる。
声の主の頭上に、プロパティ情報が浮かんだ。
《個体名:原田みのり。健康栄養学部・管理栄養学科。1年生》
めがねをかけた地味な顔立ち。耳の横で細く三つ編みに結われた髪が、より控えめな印象を与える。
……お胸はまるで控えめではないが……ちっ!
フェルネスは手を止め、原田みのりの顔をじっと見つめた。
「何か御用かしら? 原田さん……原田みのりさん?」
名前を呼ばれた瞬間、みのりの目が驚きに見開かれる。同時に、〝大学生である女神〟のプロファイルがみのりの記憶にインストールされた。
みのりは一瞬、表情を戸惑わせるが、すぐに苦笑いで誤魔化す。
「えっと……ごめんなさい、私、人の顔と名前を覚えるのが苦手で……」
頭を下げるみのりに、フェルネスは微笑む。
「気にすることはありませんよ」――そもそも、はじめて会ったのですから。
この世界の人間と深く関わらないよう、相手の認識を阻害する結界を常に張っている。
しかし、それをすり抜けてくる者も、どういうわけか稀にいた。原田みのりも、きっとそのひとりなのだろう。
「それで、私に何か御用で?」
「実はお料理サークルが人数割れしちゃって……入ってくれる人を探してるの」
「なるほど。栄養学部のある大学で、料理サークルが非公認とは嘆かわしいですね」
「女神さん! そうなんだよ! とんでもないの!」
みのりが嬉しそうに身を乗り出す。
「では、名前だけお貸しします。私は勉強とバイトが忙しいので」
それだけ伝えると、フェルネスはノートPCの画面に目を戻した。
「あ、あはは……そ、そっか~……あ、ありがと~……」
みのりは苦笑いしつつ、何か言いたげにその場に佇む。
「……まだ何か?」
「えっと……あの……それって中間テスト対策?」
フェルネスはキーボードを叩く手を止め、軽く息を吐いた。
「そうです。なんと申しますか……入学してから昨日までの記憶がないのです」
「えっ?!」
「記憶喪失です。その間の勉強が、まったくわかりません」
もちろん嘘だが、「昨日から大学に入り込んだ」などと言えるはずもない。
「えええええ!!」
突然の叫び声に、フェルネスは両耳を押さえて顔をしかめた。
「大声を出さないの」
「ご、ごめんなさい! で、でも、それって大事なんじゃ――」
みのりは慌てて口を押さえる。
「大丈夫です。ここから絶対に巻き返すので」
「え? あ、いや……勉強の話じゃなくて……」
「ところで、原田さんは勉強は得意かしら?」
みのりは一瞬、言葉に詰まり、視線を泳がせる。
「わ、私、そんなに勉強は得意じゃなくて……」
「ぽいですね」
「うぐぅ……」
みのりが困ったように小さく呻く。
「まあ、私も語学系以外は苦手ですけど……」
「そ、そっか! よかった!」
「何がです?」
フェルネスがにっこり睨むと、みのりはびくりと肩を跳ねさせた。
「ふう……原田さんも中間テスト対策をされては? 学生の本分は勉強ですよ?」
「そ、そうだよね……お母さんにもよく言われるよ」
バツが悪そうにしつつ、みのりは何かを思い出し、顔を上げた。
「で、でもね! サークルっていいこともいっぱいあるんだよ!」
「ふむ。興味深いですね。たとえば?」
フェルネスは興味なさげに返す。
「サークルの先輩が〈秘伝のテスト攻略法〉ってのを持っててね!
たとえば、解剖生理学Ⅰのテストは、国家試験の過去問3年分をシャッフルして出題されるから、極端な話だけど答えを丸暗記すれば百点だって取れるとか」
――バンッ! フェルネスはノートPCを勢いよく閉じた。
「え、えっと……」
「原田さん――私たち、友だちになりましょう!」
フェルネスは微笑み、手を差し出す。
「あなたこそ、私が探し求めていた人財です。もちろん、そのお料理教室にも入ります」
「あ、あの……お料理サークル……なんですけど……」
フェルネスは軽く拳を握り、思い出したように目を輝かせる。
「――そうだ。そうでした! 勉強にかまけて、うっかりしていました!
神である私の料理に塩をかけたこと――
たとえ神々の黄昏が訪れようとも、私は絶対に忘れませんからね!」
「な、なにを言ってるのか、わかんないよう……」
みのりが不安そうに後ずさる。フェルネスは妖しく微笑むと、目を細めた。
「見てなさいよ。私の手料理以外、箸をつけられない体にしてやりますとも!」
みのりは困惑しながら「え、えぇぇぇ……」と顔を引きつらせる。
「そしたら、尾本さんのダイエットも大成功! 世界も救えて、一石二鳥!」
復讐の女神と化したフェルネスの脳裏に浮かぶのは、尾本か、それとも広瀬か――
それはまさに「女神のみぞ知る」であった。




