第016話「異世界を救う仕事をやってる」
七月正午の強い陽射しが窓から差し込み、カーテン越しに教室を明るく照らしていた。
午前の期末試験が終わり、教室にはどことなく解放感が漂っている。
窓を開ける音、試験のできを語るざわめき、椅子を引く音――いつもの騒がしさが戻りつつあった。
そんな中、広瀬綾人は机に突っ伏していた。
試験は苦手ではないが、終わった直後は何も考えたくない。
「綾人、今日のテストどうだった?」
ふいに声をかけられ、綾人は目を開けた。
ずり落ちためがねを押し上げながら、茶山晴秋が覗き込んでいる。
白く細身の体、ゆるく波打つ色素の薄い髪。理系進学校の男子生徒らしい雰囲気だが、普段の彼の軽いノリのせいで、あまりそうは見えない。
「今回もノー勉だけど、数学と英語は何とかなったかな?」
「出たよ、天才の余裕」
晴秋が半ばあきれたように肩をすくめる。
「余裕なもんか。勉強する時間がないなりに、考えながらギリギリでやってるんだ」
「なんだあ? 学校に隠れてバイトでもしてんのか? 美緒ちゃん先輩にチクるぞ」
綾人の学校は進学校で、もちろんバイトは禁止だ。ちなみに、晴秋の言う『美緒ちゃん先輩』は、生徒会長の鷹村美緒のことである。晴秋が生徒会役員をやっている関係で、綾人とも仲良くなっていた。
美緒は水泳部のエースで、健康的な小麦色の肌とポニーテールが特徴の元気な女性だ。生徒会長としての強いリーダーシップが時に暴走し、少し強引なところもあるが、持ち前の明るくさっぱりした性格のおかげで、みんなに慕われている。思えば、生徒会役員ではない綾人も、何度となく彼女の仕事に駆り出されるあたり、本当に人を使うのが上手かもしれない。
「バイトっていうか……異世界を救う仕事をやってる」
「はあ?」
怪訝そうな声をあげる晴秋に綾人は小さく笑い、顔を上げた。
「ゲームの話だよ。ジャンルは、そう……MMORPGかな?」
「なにそれ、意外すぎるんだけど? 綾人がゲーム? しかも試験期間中に?」
趣味は勉強、料理、体力作り。ゲームは、姉が家でやっている時に、読書や料理の片手間に横で眺める程度。長い付き合いの晴秋には、想像もできない姿だろう。
「僕もまさか、こんなに熱くなるとは思わなかったよ」
――まあ、やっているのは、ゲームどころか本気の殺し合いなのだが。
以前、父から「釣ってきた魚を捌いてほしい」と頼まれたことがある。しかし、その魚はまだ生きており、包丁を入れることができなかった。
結局、姉が苦笑いしながら魚を三枚におろしてくれて、やっと料理することができたのだが……どうしても、箸が進まなかった。
魚のせいではない。自分が無意識に目を背けていた事実に気がついたからだ。
――あちらの世界にいる間は、心理的なリミッターのような〝何か〟が外れるらしい。
そのことに対する恐怖は、今も確かにある。だが、乗りかかった船から降りる気にはなれない。異世界ウルファジムを旅した2年半の間に出会った人たち……彼らの人生を知ってしまった以上、女神に与えられた〈勇者〉としての責務を、どうしても全うしたかった。
少なくとも――彼らの平和を脅かす、正体不明の〈魔王〉を倒すまでは。
「ふ~ん、綾人がそこまでハマるRPGねえ……
まあ、俺は古のギャルゲー以外には興味ないけどさ!」
晴秋はめがねをクイッと上げ、どこか得意げに言う。
「……なんかキモいな。晴秋は三次元の女子には興味がないのか?」
「綾人くん、親友相手に辛辣すぎない? 自分がモテるからって酷くない?」
「いや、素直な疑問だよ。それに、晴秋は顔はいいからモテると思うぞ」
「取って付けたように言うなよ……
まあ、それはさておき――よくぞ聞いてくれた、友よ!」
急に身を乗り出す晴秋に、綾人は反射的に背を引いた。
「実はマンションの隣の部屋に、めっちゃ可愛い子が住んでることが判明した」
「ご近所さんを怖がらせちゃダメだぞ、晴秋?」
「俺は、そういうことを真顔で言うおまえが一番怖いよ」
「冗談じゃないか」
「綾人が言うと冗談に聞こえないんだよ。――そんでその子なんだけどさ!」
めがね越しの瞳がキラキラと光る。
「実はウチの近所のコンビニでバイトしてたんだよ。これって運命じゃね?」
綾人は目を細め、窓の外を見た。入道雲がゆっくりと形を変えている。
「晴秋と同じマンションに住んでいるんだろ? 生活圏内のコンビニでバイトしてても……普通」
「おいおい。そこは『運命だな!』とか言うのが親友の務めだろ?」
「いや、早く現実に引き戻すのが親友の務めだと思う」
「おまえはホントに……それで、だ! 今日の帰りにそのコンビニ行こうぜ!」
晴秋が得意げに腕を組む。綾人は眉間を押さえた。
「なんで僕が? それに明日も試験あるぞ?」
「いいじゃんかよー! 自慢したいんだよー!」
「自慢って何の? 頭は大丈夫か、晴秋?」
「だから真顔で言うなって!」
晴秋がわざとらしく頬をふくらませる。綾人は沈黙の後、諦めたように息をついた。
「わかった、わかった。負けたよ。せめて何か奢れよ」
「おう!」
満面の笑みを浮かべ、晴秋が勢いよく綾人の肩を叩く。
――正直、成績は徐々に下がってきている。それでも学年10位以内にいるのだが……
でも、今回の試験で10位から下に落ちそうな気がする。
幸い、今日は午後の授業がなく学校は休みだ。家に帰ってどれだけ勉強できるか、勇者活動の開始時間から逆算する。今日の試験の自己採点は、期末試験が終わってからだ。
後回しにするのは不本意だが、今回は仕方ない。
綾人は静かに息を吐き、心の中で計画を再確認した。
「……うん。なんとかなる、かな?」
学生としてやるべきことは、きちんとやらねばならない。それに、勇者活動のせいで学校の成績が落ちたと知ったら、女神はどう思うだろう。それを考えると、胸が痛む。
「まあ、足掻いてみるさ」
呟きながら、机にかけていたカバンを肩にかけ、立ち上がった。
教室の入り口では、晴秋がそわそわと時計を確認し、ちらちらとこちらを窺っている。
綾人は軽く肩をすくめ、やれやれとため息をついた。




