第009話「これが異世界ウルファジムなのか(前編)」
――女神はめっちゃ不機嫌だった。
夕方。尾本の部屋は沈みかけた陽で淡いオレンジ色に染まる。
テーブルの上には、きれいに洗ってある弁当箱が置かれ、尾本はその前で正座状態。
対して、向かい側の座椅子に座る女神は腕を組んでそっぽを向いている。
「なんなの、この地獄……」
自分の部屋なのにどうにも落ち着かないのは、若い娘さんが部屋にいることと、その娘さんが明らかに不機嫌なこと、部屋がきれいに掃除されているからだろう。
女神は帰宅後に着替えたらしく、胸元に『Divine』とでかでかとプリントされたオーバーサイズのパーカーを着ており、ボトムスは膝丈のデニムスカートだ。
怒れる若い娘さんの前で、正座させられているスーツのオッサンという、痛々しい光景――なかなかに危険な絵面であることを再認識させられる。
「……女神様、いつまでそんな顔をしているんですか?」
「あら? どんな顔ですか?」
女神が片目だけこちらに向ける。
「そうですね。『せっかく私が作った料理に塩をかけるとか信じらんない』って顔に見えます」
「それだけで、こんな顔にはなりませんけどね!」
―――ふん!
女神は口をとがらせ、再びそっぽを向いた。
「いや、せっかく作っていただいたんですから、さらに美味しく食べたいじゃないですか」
「追加で干し芋まで食べてたくせに」
女神はぷくっと頬を膨らませる。
「監視してたんかい。俺のプライバシー、どんどん行方不明」
「まあ、食べた後のお弁当箱を、ちゃんと洗ってきたのは感心しましたけどね」
――ふんっ!
女神は、ぷいっと視線をそらしたが、口元はわずかにほころぶ。
「怒るか褒めるか、どっちかにしてくださいよ」
「だいたい何なんです? あのヒロセっていう娘は? さも当然のように塩とか持ってきて!」
ほころんだ女神の口元が、再び尖る。
「広瀬なりの優しさなんですよ。勘弁してやってください」
「まあ? 私は? 尾本さんが体重さえ減らしていただけたら? それだけでいいんですけどねっ!」
ふ~~~んっ!
女神は鼻を鳴らしながら腕を組み、座椅子に深く身を沈めた。その目は細められ、唇は怒りも最高潮とばかりに尖る。
「それなら、女神様のスマホにもデータがいってますよね? なんと、今朝から1キロも減ってます!」
「1キロ減っても……と言いたいところですが、頑張りましたね」
褒めながらも、への字口で女神はスマホを操作する。
「ただし体水分率が50.1%とかなり少ないんですよね。お水、ちゃんと飲んでます? 軽くなったのって水分補給をサボってただけじゃないんですか?」
「そんなデータまで取られるんだ。さすがデジタル体重計。ちょっと勘弁して欲しい……」
「ダイエットには水分補給が重要なんです。代謝が上がるし、余計な間食も防げるんですから。なので、水分補給は意識的にお願いしますね」
「マジで? 水太りとかいう言葉を聞いた事があったから勘違いしてたかも」
女神は眉をひそめ、スマホを手早くスワイプした。
「それにしても、尾本さんって筋肉含有量は優秀なんですよね。53.3kgとは意外です」
「お? そうなんですか? 通勤以外の運動なんかしてないんですけど」
尾本が得意げに微笑んでみせると、女神は呆れたように目を伏せ、深々とため息をついた。
「ぜんぜん褒められないですよ。何か運動しましょうよ?」
「え~っと……もう少し涼しくなったら」
「……まあ、無理して熱中症になられるよりましですけど」
女神は口元をわずかに開きかけては閉じ、考え込むような仕草を見せる。まだ何か言いたいことがありそうだ。
「そんな事より! 異世界に行きましょうよ、異世界! 楽しみにしてたんですよね。どうやって行くんです?」
面倒くさそうに頬杖をついた女神は、じっと尾本を見やる。
「……まず、異世界行きのトラックを用意します」
「ほうほう。それで?」
「そして轢かれます。『轢』って、車へんに楽しいっていう漢字なのが不穏ですよね」
「すみません。それ以外の方法でお願いします」
女神は大げさに肩を竦めてみせた。
「尾本さんは本っっっっっ当にわがままですね! じゃあ、普通に夜の10時までには寝てください。夢の中から私の守護する世界『ウルファジム』に行けるようにナンカしといたので」
「便利だなー ナンカって」
「あ。ちゃんとお風呂に入って歯も磨いてくださいね。それと睡眠の質が悪くなるので、就寝前の飲酒は控えてください!」
女神が尾本をビシッと指さす。
「どこで仕入れてきたんだ、そんな知識……ああ、大学か。それにしても、今日は早めに帰ってきて正解だったな。3時間前ならビールぐらいは飲めるか?」
「そこまでして飲まなきゃダメなんですかね? 今日は休肝日でもいいじゃないですか」
「見逃してくださいよ。350ml缶を1本だけなんですから~」
「どうせ、おつまみも食べるつもりなんでしょ?」
「唐揚げは買ってこなかったんですよ。枝豆です。枝豆は野菜ですよ、野菜!」
「ちっ!」
「舌打ちされた!」
「それじゃあ、私は学校の課題があるんで部屋に戻りますね。10時にあっちで会いましょう」
女神は立ち上がると、肩と首をポキポキと鳴らし、「ふにゃ」っと声を漏らして軽く伸びをした。
今日は初日の授業に加えて課題まで出ているなら、疲れるはずだ。あとでお供え物でも持っていくべきなのかもしれない。甘いものなら機嫌も直るか?
「っていうか、女神様ってこのマンションのどこに住んでるんです? 上の階って言ってたけど」
玄関まで見送りながら、ふとそんな疑問がわく。
「言ってませんでしたっけ? ちょうど真上の部屋ですよ」
「やだっ! なんか天井裏から俺を見下ろす女神様を想像してブルっときちゃった!」
「人を心霊現象みたいに言わないでください! 特大の天罰を下しますよ!」
女神はぷくっと頬を膨らませた。
「あーあ。今日一日で随分と見慣れちゃったな、その顔……」




