第122話「イグニッションプライム、起動」
異変を感じたゴルテールは、ヴェロークの速度を落とさずに背後を振り返った。
リオーダスが……少女に抱えられて、空に浮いていた。
驚きに目を見開くゴルテール。その視線の先で、少女の緑色に輝く瞳と目が合う。それは、こちらを獲物と捉える猫科の獣の目だ。冷たい光を帯びたその視線に、嫌な汗が背筋を伝う。
「な、ん、だ?」
思わず漏れた言葉は、混乱そのものだった。
人体単体による飛行。それが可能なら、魔術研究の常識を根底から覆す。
だが、ゴルテールの頭に真っ先に浮かんだのは、数十年にわたる研究の結論だった。
『現代の魔法技術では実現不能』というのが、揺るぎない答えだったはずだ。
――だとすると、あれは何だ?
ゴルテールは瞬時に、あらゆる可能性を模索し始めた。
「ひょっとして……上から糸で吊ってんのか?」
ゴルテールは咄嗟に頭上を見上げた。その瞬間、重い拳が顔面を直撃した。
「は――」
悲鳴を上げる間もなく、ゴルテールの身体は縦に回転しながらヴェロークの背から弾き飛ばされた。理解が及ばぬまま、視界がぐるぐると回る。
「あああ! もぉ! やだぁ、信じらんない! 急に上を向かないでちょうだいよ!
私の拳、大丈夫? 汚れてなあい?!」
ゴルテールは、眼前に散る星々を必死に振り払いつつ、その拳の主を捉えようとした。
目に飛び込んできたのは――全身をピンクの甲冑に包み込んだ、色黒で長身の男。
その顔には厚化粧が施されており、短く刈られた青い髪とお揃いの青い口紅が、不自然なほど鮮やかだった。
「な、何なんだ、この――」
「この野郎! よく見たらネイルが取れてんじゃねえか!!」
ゴルテールが反応する間もなく、再び衝撃が走る。身体は勢いよく横回転を始め、視界が再び狂う。回転する刹那、拳が視界の横から迫ってきていたことだけは認識できた。
三回転後、ゴルテールの身体はようやく止まった――だが、それは地面の上ではない。
頭を掴まれ、高々と持ち上げられていたのだ。こめかみからはメキメキと嫌な音が響き、鈍い痛みが徐々に広がる。
「ああ、もう! 殴るのは一発って決めてたのに、二発も殴っちゃった……
エレガントじゃないわあ……」
ピンク甲冑の男は、残念そうにため息をつきながらゴルテールの頭を掴む手を離す。
地面に崩れ落ちたゴルテールの視界に映ったのは、気を失ったレネをヴェロークから下ろすピンク甲冑の男の姿だった。
「ちょっと、あんたらねぇ……
こんな可愛い女の子に何しちゃってるわけ?
――って、この子、やっぱり似てる?」
ピンク甲冑の男は呟くと、レネに付けられた首輪に視線を落とし、無造作にそれを引き千切った。
信じ難い光景だった。鉄に匹敵する強度を誇る青結晶の首輪が、まるで粘土のように扱われている。
「な、なんなんだぁ、テメェは……」
立ち上がったゴルテールが声を絞り出すと、ピンク甲冑の男が振り返って鋭い視線を向ける。
「ちょっと、黙ってなさい! 今、考え中なんだから!」
瞬間、ゴルテールの額に激しい衝撃が走った。千切られた首輪が、凄まじい速度で顔面を直撃したのだった。
「ああ! ほら! またああ!
殴るのは一発ってレオフォルトに言ったのに、三発目まで決めちゃって……
んもぉぉ~~~~! 私のバカバカバカ! この、美の化身! 歩く芸術品!」
ピンク甲冑の男は頭を抱え、その場で悶絶している。
一方、ゴルテールも別の意味で頭を抱えていた。額に走る痛みと衝撃で意識が飛びそうになりながらも、必死に状況を整理しようとする。だが、全てが理解の範疇を超えていた。
「いいわ。レオフォルトには『みっつだけ』って言ったけど、もう少し手伝っちゃう!
どちらにせよ、このままだとゴブリンの群れがこっちに来ちゃうし……」
ピンク甲冑の男は、ゴブリンたちに向けて片手を広げた。
その指先から、空間を歪ませるような魔力の波紋が広がり、青白い魔法陣が浮かび上がる。
「ターゲット座標設定完了――
出力を5%に設定。効果範囲は半径20メートルに――
チャンバー生成開始。空間テンソル、XYZ軸同期・安定確認」
迫りくるゴブリンの先頭集団が、突如として動きを止めた。
見えない壁に阻まれ、動けなくなっている。
その壁は円筒形を成し、ゴブリンの先頭集団を正確に囲い込んでいた。
首輪の支配を解かれたゴブリンたちは、その異常に気づき、ざわつき始める。
壁の外にいるゴブリンたちも、何かを察したように怯えた声を上げ、じりじりと後退する。
しかし、目の前で渦巻く魔力の異様な光景に圧倒され、その場から逃げ出すこともできないでいる。
「チャンバー内、魔力圧縮開始。
圧縮率75%……イグニッションプライム、起動」
見えない壁の内側に、膨大な量の魔力が注ぎ込まれていく。
その中ではバチバチと青白い火花が舞い、稲妻が蛇のようにのたうち回る。
ゴブリンたちは恐怖に震え、壁の内側では混乱と悲鳴が入り乱れていた。
ピンク甲冑の男は衝撃に備えるようにもう一方の手を前に向けた。ピンク色の甲冑の一部が展開し、そこから白い蒸気が吹き出しす――
「セーフティーロック解除。管理者権限〈su〉、カウントダウンをカット」
「お、おい……まさか、それ……!」
ゴルテールの声が震える。それは――
ピンク甲冑の男が歯をむき出し、狂気めいた笑みを浮かべた。
「カタストロフィック・フレア・トゥエンティスリー……
イグニッション!」
次の瞬間、世界が、白に染まった。




