第117話「見ーてーるーだーけー」
デザートを食べ終えたアイリスが、退屈そうに椅子を離れると、そのまま銀の鷲亭のホールへと飛び出していった。肩に乗るボンボンは、彼女の監視役を任されている。他のメンバーは、まだ食事中なのだ。
それにしても意外だったのは、リュシアンの食べる速度だ。一口ごとにナイフとフォークを丁寧に置き、余韻を味わうかのように時間をかけている。まるで食事そのものが儀式の一部であるかのようだ。
管理栄養士を目指すフェルネス(ボンボン)としては、感心することはあれど、それを悪いとは思わない。むしろ、持ち主というか飼い主というか……尾本に似て、まったく料理を噛まずに飲み込むアイリスには一言も二言も苦言を言ってやりたい気分である。
「これ、売ったら高値がつくと思う?」
アイリスがホール中央に飾られた巨大な白磁の壺を指さして尋ねてきた。それは、薄青い花模様が描かれたもので、貴族の趣味の高さを静かに物語っている。
「ちょっと、アイリス。間違っても触れたりしないでくださいよ」
ボンボンはそう嘆きながら、ホールの中を見渡した。この料理店はかつての貴族の邸宅を改築して作られており、店内のあちこちに絵画や陶画、彫像、壺などの美術品が展示されている。かといって下卑た成金趣味といった印象は受けない。薄暗い照明が美術品を柔らかく照らし、その陰影が店内の落ち着いた雰囲気を一層際立たせている。かつて、この邸宅に暮らしていた貴族の趣味とセンスが色濃く残っているのだろう――故に、アイリスをひとりで放置するには危険すぎる。
「触らない、触らない。見ーてーるーだーけー」
幼稚園児以下の倫理観しか無さそうなアイリスが、口を尖らせながらホールを歩く。彼女がほんの少しでも手を伸ばすだけで、こちらの寿命が縮みそうだ――いや、寿命の概念が意味を持たないはずの女神ですら、思わずそれを信じてしまいそうなほどに。
「ん?」
不意にアイリスが歩みを止め、階段踊り場に目をやる。そこには、磨き上げられたガラスケースに収められた銀色の胸当てが飾られていた。ケースの周囲には古びた金の装飾が施され、その中で胸当てが静かに輝いている。
「んんんん!?」
驚いた様子で、アイリスが階段を駆け上り、ケースの前に立つ。
「ちょっと! 触るなって言ったばっかりでしょ!」
アイリスが勢いよく動いたせいで、ボンボンは肩から投げ出された。慌てて羽ばたきながら後を追う。
「いや、これこれ!」
アイリスはガラスケースに張り付くようにして中を覗き込み、指先でケースをコツコツ叩きながら胸当てを指差す。
「だから触っちゃ駄目って――」
ボンボン――フェルネスの視線がガラスケースの中に収められた銀色の胸当てに釘付けになる。
磨き抜かれた銀の表面には、翼を広げた鷲が刻まれ、その下を流れ星の意匠が流れるように描かれている。その彫刻は、ただの装飾とは思えないほどの精巧さで、見る者に一種の威圧感さえ与えていた。
光を受けるたびに、胸当ての銀色の表面が星空のように輝き、見る角度によって微妙に色合いが変化しているように見える。その異質さは、まるで物語の外からやってきた異物であることを示すかのようだった。
「これ、星異物ですか?」
「うん。ウチみたいに意識を持ってたりはしてないタイプ。懐かしいな。何千年ぶりに見たっけ? No.9が使っていたはずだけど」
アイリスが興味深げに、胸当てを見つめる。大きさは小柄な女性しか装着できなさそうだ。
「おや? 星異物にお詳しいようですね」
背後から声をかけられ、ふたりは慌てて振り返る。
ホールには、六十代後半ぐらいの老紳士が立っていた。白髪混じりの短髪を整えた端正な姿が印象的だ。細身ながら背筋を伸ばした立ち居振る舞いには品格が漂い、薄茶色の穏やかな瞳がどこか温かみを感じさせる。手入れの行き届いた黒いジャケット姿は、自ずと気品をまとっている。
「驚かせて申し訳ございません、お嬢様方。私は、この銀の鷲亭の主人を代行しております、アルバート・ルヴィニアと申します」
丁寧に一礼をすると、老紳士――アルバートは、柔らかな微笑を浮かべた。その品格ある立ち居振る舞いに、フェルネス――ボンボンの視線が鋭くなる。
「お嬢様方……?」
その言葉に、自分が認識されている可能性を悟ったボンボンは、小さく息をつく。そして、次の瞬間、彼女の小さな体が淡い光に包まれた。光は静かに広がり、ホール全体に柔らかな輝きを放つ。光の粒子が宙を舞うようにゆっくりと彼女を包み込み、その輪郭を変えていく。
一瞬の静寂の後、光が弾けるように散り、新人メイドであるメグの姿がそこに現れた。黒と白のメイド服に身を包み、控えめにまとめられた金色の髪が、彼女の落ち着きと慎ましさを感じさせる。
「しかし、アイリスとあなた以外にこの姿を見られたら、何かと厄介ですね」
そう呟くと同時に、フェルネス――メグは指を鳴らす。その音と共に認識阻害の力が発動された。空気が歪むような感覚が一瞬だけ広がり、まるで彼女がそこにいるという認識自体を周囲から消し去るように、自然と存在感が薄れていく。
アルバートは彫刻のように動きを止め、その目を驚きで大きく見開いていた。
「あれ? どうかしました?」
フェルネスの予想とは違う反応。ひょっとして、私の正体に気がついていたわけでは……ない?
「あ、いえ。その、小鳥の方が女性の声を出してらっしゃったので、お嬢様方とは申しましたが……
まさか、人間のお嬢様だったとは」
「しまったあああ!!!」
メグは頭を抱え、膝をついた。久しぶりに女神の神格も一気に落ちた。どこかで、デロデデロ……という神格が落ちる時の不穏な効果音も聞こえてくる。




