第116話「それでも、だ」
街道を風のように駈ける二頭の馬。馬の首筋には汗が光り、滴っている。息は荒く、鼻孔を大きく膨らませながら、鼻息が風のように音を立てていた。レオフォルトは労うようにその首筋をぽんぽんと叩くと、手綱を巧みに操りながら、もう一頭の馬に速度を合わせた。そして、鞍に立ち上がるように体を浮かせると、一瞬にしてもう一頭の馬へと乗り移った。
馬に無理をさせている自覚はあるが、急がなければならなかった。
街道の両脇には背の高い広葉樹の森が続いており、木々の間からは湿気を纏った霧が、まるで意思を持つかのように街道へ侵食を始めてきている。その霧はただ漂うだけでなく、まるで触手のように地面を這い、木の影を不気味に伸ばしていく。時折、霧の中からかすかな囁き声のような音が聞こえ、空気が一層重く感じられた。
季節は初秋。時間は正午に近く、連日の薄曇りで多少の肌寒さはあるかもしれないが、この濃い霧は明らかに常識を超えている。蝕むかのように空気が重くなり、地鳴りのような音も聞こえてきた。それは遠くで雷が響くような低く鈍い音で、時折、地面の奥深くから何かがうごめくような振動を伴っている。
――これはただの霧ではない!
レオフォルトは、自分の感じた嫌な予感が現実のものとなりつつあることに、複雑な思いを寄せていた。何かが迫っている――その確信だけが胸に重くのしかかる。先行している雇い主オウリィの無事を祈りながらも、頭の片隅では最悪の事態を想像せずにはいられなかった。そして、その事が、日頃ではあり得ない隙を生んでしまった。
「ねえ、あなた。ちょっといいかしら?」
急に背後から声をかけられ、反応が遅れた。しかも、自分の死角である、眼帯をしている左側からだった為に、完全に虚を突かれた格好だ。腰に下げた剣に手を伸ばし、声の主を見る。そして、我が目を疑った。
自分が乗り換えた馬に、長身の男が跨っていた。いや、男と言っていいのか――
短く刈った青い髪、色黒で筋肉質。星やバラのエングレービング(刻印)が刻まれたピンク色の趣味の悪い甲冑を身につけている。化粧は濃く、唇に塗られた艶のある青が妙に目を引く。
「どこから現れた! 魔王軍か!」
レオフォルトは馬の速度を落とさず、その男に問いかける。
「空からよ。魔王軍みたいなエレガントさの欠片もないような連中と一緒にしないでもらえる?
私は、ラズリオ。見ての通り、ただの魔法使いのオネェさんよ」
そう言うと、ラズリオと名乗った男はウインクして見せた。魔法使いとのことだが、自分が知っている魔法使いや魔術技師とは随分と毛色が違う……ただ、ラズリオの頭上には青白い魔法陣が浮いており、そこからは光の粒が降り注いでいるのが分かる。その光の粒は馬の汗ばんだ体に吸い込まれていき、馬の荒い息遣いを急速に穏やかにしていく。よく見れば、趣味が悪い甲冑を身に着けてはいるものの、武器らしき物も携えていないようだ。レオフォルトは、相手のペースに乗らないためにも、落ち着いた様子で問うた。
「俺は、傭兵隊『銀翼の鷲』のレオフォルトだ。魔法使い殿が何の用だ?」
「あら。名前も込みで私好みね。十年ぐらい早く出会っていたら口説いていたかも……」
ラズリオは値踏みするようにレオフォルトを見た後、「なんてね! 冗談よー!」と笑って付け足す。
「すまん。俺は急いでいる。用があるなら手短に頼みたいんだが……」
「せっかちな男ねえ……要件は単純よ。あなたが〝あれ〟の関係者なのか尋ねたかっただけ」
そう言うと、ラズリオは前を見るよう顎で促す。レオフォルトが前方の街道に目をやった瞬間、左手の森の中から、見たことももない魔物が飛び出してきた。その数は五頭。赤い鱗を持つ、翼のない竜のような生き物。その背には鞍が取り付けられており、人間が乗っている。軽装備ではあるが、戦闘を目的とした集団であるのは分かる。そのうち、先頭を走る一頭は二人が乗っており、背後に座る銀髪の少女と目があった。少女の瞳が驚いたように見開かれ、〝助けて!〟と口を動かす。
次の瞬間、彼女の首から青白い光が放たれ、それがレオフォルトの体を突き抜けていった。左目の眼帯の奥にある青結晶の義眼が、キーンと嫌な金属音を発し、レオフォルトの頭に痛みを送った。あの光に、不快さと、これまで感じた事もない怒りの感情が沸き立つ。
――憎い、憎い憎い……憎い憎い憎い憎い憎い壊す壊す壊す壊す壊す!
埋め込まれた義眼がそう囁いている。レオフォルトは、眼帯の上から左目を押さえ、首を横に振った。
どう考えても普通じゃない。
そうこうしている間に、五頭の魔物は街道に飛び出してきた勢いのまま走り去っていった。その二足走行する魔物の速さは異常で、ギャロップ(全速力)の馬であっても追いつける可能性が感じられない。
「な、何なんだ、今のは?!」
レオフォルトが問うと、ラズリオは肩をすくめてみせた。
「知らないわよ。だから、あなたに聞いたの。まあ、これであなたが関係者じゃないのは分かったけど。
――それより、レオフォルト。馬を止めなさい」
ラズリオが手綱を引き、重心を後ろにそらしながら真剣な声色でそう告げる。
咄嗟に、レオフォルトも馬の速度を落とした。
それと同時に、不気味な地響きが足元に伝わってきた。大地が震え、森の木々が揺れ、まるで何か巨大な存在が動き出したかのようだ。そして次の瞬間、木々の一部をへし折りながら深緑色の汚泥が白い霧の中から吹き出した。
いや、汚泥と思われたそれは、一心不乱に走るゴブリンの群れであった。無秩序に走り、跳ね回り、倒れた仲間を躊躇なく踏み越え、誰一人としてその行動を止める気配がない。目には狂気の光が宿り、踏みつけられて青白い火花となって消える仲間を見ても、誰一人振り返ろうとしなかった。
さっきから、何もかもが完全に異常だった。馬はその異様な気配を敏感に察知し、足を止めると、耳を伏せて低い鼻息を漏らした。その動作には明らかに怯えが表れている。
レオフォルトは、ゴブリンの群れを指差し、ラズリオに向き直った。
「ラズリオ殿は、〝あれ〟と関係があるのか?!」
「冗談じゃないわよ。私、エレガントじゃないモノは吐き気がするほど嫌いなの」
そう言うと、ラズリオは眉間にしわ寄せ、ハンカチで口元を覆う。そうこうしている間に、ゴブリンの群れは街道の向こうへと走り去っていった。恐らく、行き先はオルティリスの街だろう。
レオフォルトは左目を押さえたまま、考え込んだ。
突如として現れた、ラズリオという謎の魔法使い。人を乗せた見たこともない魔物。自分に助けを求める少女。異常な様子のゴブリンの群れ――何を、どうすればいい?
最優先しなくてはならないのは、雇い主であるオウリィの身の安全。それと、自分に助けを求めた少女の救出。何にせよ、オルティリスに向かう事で、全てが収束するはずだ。オルティリスに行けば、勇者たちがいる。数は少ないだろうが、オルティリスには守備隊も駐屯しているはずだ――覚悟は決まった。
「ラズリオ殿、貴殿を男と見込んで頼みがある!」
「私はオネェさんよ! まさかあいつらと戦えとか言わないわよね?」
ラズリオが露骨に顔をしかめた。
「そうじゃない。戦わなくていい。
今、ラズリオ殿が使っている馬を癒やす魔法を使い続けてもらえないだろうか?
全速力であいつらを追う。オルティリスの街まで同行してほしい!」
ラズリオは腕を組むと、空を見上げて難しい表情でぶつぶつと何か独り言を呟く。その内容には「正直、エンサリアなんか滅んじゃえばいいと思ってんだけど――」という、物騒な言葉も混じって聞こえてくる。
「頼む。オルティリスには、恐らく俺の雇い主がいるんだ。それに、さっきの謎の魔物に乗せられていた少女……彼女が俺に助けを求めた。子どもから助けを求められた以上、見殺しにはできん」
「ふん。連れ去られる少女が、必ずしも清廉潔白なお姫様とは限らないんじゃない?」
ラズリオは呆れたように鼻を鳴らすと、冷めた視線をレオフォルトに向けた。
「それでも、だ」
レオフォルトは、その視線を真正面に見据えた。
「あなた……顔に、疫病神から好かれる相が出てるわよ?」
「知ってる。俺の通り名は『疫病神のレオフォルト』だ。この間は、魔王軍のザルバスとかいうヤツにも気に入られてな」
レオフォルトが肩をすくめてみせると、ラズリオが「ザルバスですって?」と笑いを漏らした。
「いいわ! オルティリスまで付き合ったげる。でも、それだけよ!
もちろん、そのまま一晩付き合ってあげてもいいけれど」
ラズリオが手綱を操り馬を走らせる。
「悪い。心に決めた相手がいる」
「あら。女たらしかと思ったら、身持ちが固いのね?」
「それも知ってる。こう見えて一途だ」
レオフォルトは笑った。




