第112話「その妖怪の名は」
街道を行く商隊本隊の馬車は、車輪を軋ませながらゴトゴトと進んでいく。その振動が手綱を通じてマレクの腕に伝わる。曇天の空は低く垂れ込み、街道の左右に広がる広葉樹の森は昼間だというのに薄暗い影を落としている。風がなく、葉のさざめきすら聞こえない森の静けさが、どこか不気味だった。
南エンサリア砦を出発して一日。決して長い距離を移動しているわけではないが、初めて商隊を指揮する重圧が、マレクの気力をすり減らしているかのようだった。森の静けさが、彼の不安をさらに増幅する。鳥の声もなく、すれ違う商人もいない。そんな状況がさらに気を滅入らせていた。
「マレク、ちょっといいか?」
隣を進む馬上のレオフォルトが、低い声で声をかけてきた。
その声には穏やかな響きがあったが、どこか警戒心を含んでいるように感じられる。
「森が妙に静か過ぎると思わんか」
マレクは思わず手綱を握り直し、その手に力を込めた。周囲の異変に気づいていながら、それを異常と断じられなかった自分の未熟さが悔しい。改めて周囲を見回した後、マレクは頷いた。
「たしかにそうですね。こんなに深い森なのに獣はおろか、虫や鳥の鳴き声すら聞こえない……」
レオフォルトは左目の眼帯を持ち上げる。眼窩に収められた青結晶の義眼で周囲を確認するが、数秒も経たず安堵のため息と同時に眼帯を戻した。どうやら、身近に危機は迫っていないらしい。
「それと、さっきから妙な胸騒ぎがしてな。オウリィの旦那たちの様子を見に行きたいんだ。
まあ、大丈夫だと思うけどな。勇者殿もいるし……」
「胸騒ぎ、ですか?」
「勘ともいうな」
その言葉にマレクはオウリィの教えを思い出した。たしか他の商人から良い商談を持ちかけられたオウリィが、迷うことなく断った時のことだ。理由を尋ねたマレクに、彼は笑って「商人の勘です」とだけ答えた。そして続けてこう語った――
『商人の勘とは、経験という砥石で磨き上げた刃です。何度も何度も磨いて、初めて使い物になる刃。誰も傷つけず、自分を守るための、言葉にできない理屈なのです』
レオフォルトもまた、これまでの旅で何度も磨いてきた己の刃を信じているのだろう。刃の形は違えど、誰もが持っている、経験が生み出した言葉にできない理屈――それが今、こうして彼を動かそうとしているのだと思える。
「俺ひとりだったら半刻(1時間)もあれば、先行しているエリサの軽馬車に追いつくはずだ。あちらの無事を確認できたら、この先のオルティリスの街で俺は本隊に戻る。どうだ?」
「レオフォルト副隊長の判断にお任せします」
「おいおい。そこは自分の考えで判断してくれ、雇い主さんよ。まあ、今回は〝判断をこちらに任せるという判断〟と受け取っておくが」
レオフォルトは軽く肩をすくめる。その動作には、呆れと一緒に温かさが同居しているようだった。
「それと顔が強張ってるぞ。少し、肩の力を抜け。商隊長の緊張は、みんなに伝染る」
その言葉は励ましの意図だとは分かるが、マレクにはそれが自分の至らなさを指摘されたようにも感じられた。そして、自分に対する情けなさと悔しさが再び湧き上がる。
「そうは言われましても……僕がオウリィ様の代わりに商隊の本隊を率いるなんて、まだ無理ですよ。それに、この街道を通るのも初めてですし……」
「なんだ。オルティリス方面には行ったことがないのか?」
ここで強がっても逆に傭兵隊の足を引っ張るだけだと判断し、マレクは正直に頷いた。
「それに、僕は、本質的にびびりなんです」
「ふむ。お前は最初から強くて余裕だらけっていう、間抜けな英雄譚の主人公にでもなりたいのか?
……俺はな。びびったこともくじけたこともない奴が、己の強さを語る姿ほど、滑稽なものはないと思ってるよ」
「いや、そういうわけじゃないんですが……」
「仕方ない。それじゃあ少し、怖い話をしてやろう」
「どうしてそうなるんですか。しなくていいですって、そんな話……」
レオフォルトは肩をすくめると、気にせず話し始める。その声はまるで語り部のように抑揚があり、どこか楽しんでいるようだ。
「あれは今から30年ぐらい昔だったかな。エンサリア独立戦争時……この先にあるオルティリスの街が、まだアルヴァリス王国のオルティリス子爵領と呼ばれていた頃の話だ。
そこには1匹の妖怪が住んでいた――」
森の中の静寂が、その話を際立たせるように思えた。マレクはその言葉に思わず眉をひそめる。
「怖い話って、そういう系の話ですか? って言うか、妖怪? 魔物ではなく?」
レオフォルトが微かに笑う。馬の歩調は相変わらず一定で、彼の余裕ある態度が、その話の内容を真剣に聞くべきかマレクを迷わせる。
「そう。そいつは子爵令嬢の姿をした妖怪なんだ。長い赤髪で、真紅のドレスを着ていた。俺より少し年上だったが、なかなか美人だったぞ」
馬車の揺れが一定のリズムで続く中、マレクは思わず首を傾げた。
「それって妖怪じゃなくて、ただの貴族のお嬢様じゃないですか」
「それがそうじゃないんだなあ。右手にはショートソード。左手にはダガーを持っていてな。背中に天使みたいな翼が生えてんだわ」
曇天の影が濃くなるように感じられる。馬の蹄が地面を叩く音だけが、不気味に響いていた。
「は、はあ……?」
「その妖怪はな。オルティリス領に攻めてきたアルヴァリス王国の騎兵隊をたったひとりで撃退したよ。
宙を舞いながら重装備の騎兵を馬から蹴り落とすんだぞ。まるで空中で踊っているみたいだったな。
いや、負けた負けた。全滅だった。騎兵隊は全員がその妖怪にとっ捕まえられて、とんでもない金額の身代金を要求されましたとさ。
はい。めでたし、めでたしっと――」
楽しそうに話すレオフォルトに、マレクは戸惑った。
「え、えっと、それってつまり……?」
「その妖怪の名は『オルティリスの剣姫』っていうんだ。怖えのなんのって……。
俺も最初に遭遇した時はあまりの恐ろしさに悲鳴をあげたね。少しちびったかもしれん」
不意に、背後から馬の蹄の音が近づいてきた。
その不穏な音が一歩近づくたびに、マレクの顔に緊張が走る。
「それに引き換え、俺の通り名は『疫病神のレオフォルト』だ。なんなんだろうね、この差は?
まあ、その一件依頼、俺が関わったら碌な事にならんかったのは認めるよ。実際、行く先々の戦場で、オルティリスの剣姫と遭遇して、連戦連敗だったからな。まあ、何にしろ良い経験だった」
言い終えた後に、レオフォルトは思い出したように首を傾げる。
「そう言えば、この前だって俺がひとりで偵察に行ったら、魔王軍と鉢合わせになったな。
案外、『疫病神』っていう通り名は当たっているのかもしれん……」
レオフォルトは、自分で言っていて得心がいったがいったのか、高らかに笑う。
そして、そうしている間にも、何やら不穏な空気がマレクとレオフォルトを包んでいく。
「あの、レオフォルト副隊長……?」
「いいか、マレク。この話の教訓はこうだ。
乗り越えた恐れは、後で良い経験だったと笑い飛ばせる。
だから、びびってていい。くじけていい。それが学びになる。
今お前が感じている恐れを忘れるな。後で腹いっぱい笑うために――」
セリーナの馬がゆっくりと進み、馬車を挟んでレオフォルトの馬に並んだ。
「レオフォルト~ さっきから随分と面白そうな話をしているな。妖怪が何だって~?」
セリーナは満面の笑顔だが、その目だけがまったく笑っていない。
「それじゃあ、後は任せたぞ、マレク。馬は2頭借りていく」
レオフォルトは笑いながら、街道の先へと馬を駆る。片手でもう1頭の手綱を巧みに操り、馬を見事に並走させる様は、さすが元アルヴァリス騎兵隊の精鋭だ。さらに言えば、その逃げ足の速さは風を切るようでもあり、無様さが美しく見えるから不思議である。
「ったく本当に逃げ足が早いね、あいつは昔から……」
レオフォルトに向けられるはずだったセリーナの鋭い視線が、マレクに向けられる。
「いいかい、マレク! あいつの話は嘘だ! 翼の生えた人間なんかいてたまるか!」
「わ、分かってますよ。セリーナ隊長!」
ふんっ!と息を吐き、彼女は不機嫌そうに視線を街道の先に向けた。
しかし、その横顔には、どこか昔を懐かしむような微かな笑みが浮かんでいた。




