第111話「構わん。続けろ――」
窓の外の曇天が続く空は重たく、その暗い色合いが一帯の景色に陰鬱な影を落としていた。湿気を帯びた冷たい空気が指揮官室の中にも忍び込み、室内の静寂を冷たく包み込む。
ギーシャルは机の前に座り、視線を手元の手紙に固定していた。地図と駒が散らばる机の上、その端に無造作に置かれた一通の手紙。そこに書かれた文章は、今回の騒動の一端でありながら、その重みを全く感じさせない軽薄さに満ちていた。
『私は愛するアーリン様のお側を絶対に絶対に絶対に離れません。魔王軍の皆様もとても穏やかですので、ご心配なく。かしこ』
端正な筆跡が整然と並ぶ手紙を見つめるギーシャルの表情が険しくなる。非常事態における彼女の無理解と無謀さが、その内容から透けて見えるようだった。
「も、申し訳ありやせん。できる限り説得は試みてみたんですが……」
眼の前に立つ、痩せネズミを連想させる男――トニ外交官が、しどろもどろになりながら頭を下げた。話によるとミリアーナ嬢は、かなり我儘で自由奔放、絶対に自分を曲げない癖のある人物だという。トニの初仕事であることを考えれば、こうして自己判断で砦に乗り込んで説得を試み、手紙を書かせるという臨機応変さを見せたことは認めざるを得ないだろう。
「いや、ミリアーナ嬢がどういった人物かを忘れていた我々の落ち度もある。今回のことは気にせずとも良い。しかし、料理長のリジー殿まで残るとは……しかも料理で人質を元気づけるだと?
いやまあ、言いたいことは分からなくもないが……」
ギーシャルは眉間を揉みながら、重いため息を吐いた。頭の中が春満開なミリアーナの暴走は理解できなくもないが、まさかカーバリオお気に入りの料理長リジーまで解放を拒むとは……。
リジー、彼女の料理の腕前は超一流だ。国家行事では、彼女の料理が出るという噂話が出るだけで出席者の顔ぶれが変わるほどだ。そして彼女もまた、噂にたがわぬ変わり者らしく『天才的な料理バカ』と呼ばれている。何でも、その行動指針も判断基準もすべて『料理』に基づいているとか。まさか自身の生命にも関わる場面で、その揺るぎない狂気じみた信念を発揮するとは思わなかった。
「まったく、どいつも、こいつも――」
自分が組み上げた策がひとつずつ崩れ落ちるような感覚がする。
唯一の救いは、相手にもこちらにもまだ時間があるということか。ふたりが解放されたタイミングでクワリオス鉱山砦を攻めるにしても、軍部への根回しや戦闘準備にかける時間は必要。そう考えれば、人質解放が多少遅れても、それほど悪い状況にはならないかもしれない。
ギーシャルは組んだ手の上に顎を乗せ、トニに問いかけた。
「トニ・サフルラ。それで、その状況をどうまとめた?」
「は、はい! ミリアーナ様とリジー様が本人の希望で砦に残るということで、人質解放の件は仕切り直しをさせてほしいと、ザルバスの旦那――じゃなかった、魔王軍のザルバスに伝えてます。あちらの了承は得てますので、新たな方針が決まり次第また砦に向かいやす!」
その報告を聞き、ギーシャルは組んだ手の陰で、安堵のため息を漏らした。
残る三人を連れ帰らなかった判断は、交渉を有利に進める上で正しいと思える。あの場で三人を解放させていれば「これでおしまい」と相手に言わせる口実を与える可能性もあった。
地方の庶民というトニの無学さは否めないが、その柔軟な判断力と行動力は評価に値する。現状でこれ以上を求めるのは、贅沢というものだろう。
「よくやった。では、新たな作戦を考えるとしよう。しかし、どうしたものか……」
リジーの料理の腕は確かにカーバリオにとって貴重なのだろうが、政治的な重要度は限りなく低い。しかし、ミリアーナは国家魔術師会会長ガルナードの娘だ。彼女の解放を怠れば、国家魔術師会を敵に回すことになるのは明白。
「それと……」
トニが、恐る恐る手を上げ、発言を求める。
「どうした? まだ何かあるのか?」
ギーシャルは無表情のままカップを口に運び、ゆっくりとお茶を飲む。さすがに疲れた。
「ザルバスからの伝言があります。続けて報告してもよろしいでしょうか?」
「構わん。続けろ――」
「ミリアーナ様とリジー様のふたりに迷惑しているそうで『一刻も早く連れ帰ってほしい』との事でした」
ギーシャルは一瞬固まった後、無表情のまま飲みかけのお茶を勢いよく吹き出した。




