第109話「サフルラ村のレネと申します」
レネは、意識がゆっくりと戻る中で、まず気づいたことがあった。頭に被せられていた袋が取られていること。まぶた越しに感じる陽の光が、正午過ぎであることを示していた。
光は柔らかいが、空は薄曇りで、陽光が差し込むことなく、どこか陰りを帯びている。冷たい空気が肌を覆い、状況の不穏さを無意識に感じさせた。微かな風が木々を揺らし、その音さえも不安を煽るようだった。
遠くからは、誰かの足音がかすかに響き、レネはそれに気づいて一層の警戒を覚えた。
倒れたまま、周囲を見回す。そこは鬱蒼とした森の中で、数人の男たちが忙しそうに戦闘の準備をしているのが目に入る。それに見た事もない魔物の姿もあった。その二足歩行する魔物は神話に出てくる竜の姿を思わせるが、翼を持たず、しなやかで筋肉質な脚部が印象的だ。
光沢のある赤い鱗に覆われており、その背中には鞍が固定されている。今にも駆け出しそうな鋭い爪先と力強い尻尾が目を引く。そんな魔物が五匹、静かに男たちの様子を見守っていた。
――魔物!
自身に迫っている危機に反応し、麻痺していた聴覚が急速に戻り始める。
その耳に、金属音や低い声が耳に響いてきた。彼らの動きは無駄がなく、慣れた手つきで物事を進めている。その様子に、レネは一層の緊張を感じた。
起き上がろうと体をひねった瞬間、両手足に鋭い痛みが走った。
確認するまでもなく、縄でしっかりと縛られているのがわかる。
後ろ手に結ばれた手は、動かすたびに縄が食い込み、痛みが走る。
戻りゆく意識の中で、真っ先に浮かんだのは、文官アルレンと兵士カリナのことだった。
自分が取った迂闊な行動でふたりを危険にさらしてしまったという後悔が、胸を締め付ける。
「ンンッ!」
くぐもった声が聞こえ、目を向けると、少し離れた木に縛られたふたりの姿が見えた。
アルレンとカリナだ。ふたりは猿ぐつわをされており、話すことはできないようだ。しかし、目が合うと、お互いに安堵の表情が浮かんだ。それだけがわずかな救いだった。
幸いというか、竜のような魔物も大人しくしており、人間に危害を加える類の物ではないと推測できる。
その時、一人の男が歩み寄ってきた。
波打つ赤髪、鋭い顎に高い鼻――少し気難しそうな顔をしている。
「おや? 目が覚めましたか。手荒い歓迎で申し訳ありません」
その薄っぺらい言葉に、レネはますます警戒の気持ちが強くなる。
魔物と行動しているという事は、彼らが『魔王軍』なのだろうか?
レネの視線の先……魔物の存在に気がついた赤髪の男は薄い笑みを浮かべる。
「あれは、ヴェロークという魔獣です。我々の馬代わりでして……大人しいヤツらので安心してください」
改めて、そのヴェロークという魔物を見る。レネと視線が一瞬だけ合うが、興味をなくしたように目を閉じ、その場に座り込んで眠り始める。
確かに、その凶悪そうな見た目に反して、脅威は感じられない。
「それより、どこか具合が悪いところなどありませんか?
どうやら薬が効きすぎていたようで、半刻(約1時間)ほど寝ておられましたからね」
男は、レネを拘束していた手足の縄を解きながら尋ねた。レネは痛む手首をさすりながら、ふと首元に違和感を覚える。手で確かめると、金属製の首輪が嵌められていることが分かった。
「どなたか存じませんが……なかなか悪趣味ですね」
レネは目を細め、男を冷たく見据えた。
男にとってレネのこの態度は予想外だったようで、目を泳がせた後に慌てて薄い笑みを作り直す。
「申し遅れました。私はアルバベール自由同盟の首領をやっているリオーダスと申します。
その首輪は、あなたにお願いしたい仕事が終わったら必ず外します。もちろん、お仲間の身の安全も保証します。
――失礼ですが、お名前と所属を伺っても?」
「サフルラ村のレネと申します。
所属も何も……
これから魔術技師の学び舎に向かうところです。今はただの村娘ですよ」
レネは気丈に答える。
アルバベールという集団については聞いたことがあった。
確か、共和国反体制派の寄り合い集団だったはずだ。リオーダスと名乗ったこの男が、そこの首領であるなら、ある程度の状況判断能力はあるだろうとレネは判断した。
レネが着ている真新しい魔術技師見習いの制服から、それが嘘ではないことと、人質としての価値は低いことぐらいは察するだろう。
「そうだ。そうそう。思い出しました。その修道女のような水色の制服は、見習いという意味でしたね」
リオーダスは、芝居じみた仕草で何度も頷く。この返事で、こちらが嘘をついていないことを理解したのだろう。
後は、この男が自分に対する利用価値の無さに気づけば事態が変わる――そう考えた瞬間、リオーダスの薄い笑みが醜く歪む。その変化を見たレネは、自分の判断が誤りだったことに気づいた。
「つまり、見習いですらないにも関わらず、事前に制服を与えられ、本国から数日もかけてサフルラ村まで文官と兵士が出迎えに来るほどの逸材……というわけですね?」
「それは――」
それは間違いないが、兄であるトニの人質という政治的な意味が大きい。
しかし、レネは言いかけた口を閉ざす。
言ったところで、余計な価値が自分に付け加わるだけだと判断したからだ。
その沈黙がリオーダスを一層歓喜させ、レネは瞬時に自分の選択が再び間違っていたと感じさせた。
「ご安心ください。先に申しました通り、レネ女史にはお願いしたい仕事がございます。それを引き受けいただければ、必ず解放いたします。
祖国を愛し、民衆を愛する我がアルバベール自由同盟は、決して民間人に危害を加えません。貴女が『ただの村娘』と名乗られるのであれば、なおのことです。私の誇りにかけて、それはお約束いたしましょう」
リオーダスはそう言って、レネに跪く。
自分の言葉と演技に酔っている様子に、レネは言いようのない嫌悪感を覚えた。
しかし同時に、現時点での選択肢と、この場を乗り切るだけの知力が今の自分には足りていないことにも気づく。冷静に状況を見極めることが最も重要だと、彼女は自らを戒めた。
視線をちらりと動かし、アルレンとカリナの様子を確認する。
二人とも動ける状態ではなく、痛々しいほどに縛られているのが分かる。
兵士であるカリナの目には明らかな闘志の炎が浮かんでおり、命に替えてでもレネとアルレンを守りたいという気持ちが伝わってくる。その反応が、さらにレネの胸を締め付けた。
だが、今は無理に抵抗しても、かえって状況を悪化させるだけだと冷静に判断する。
リオーダスの言葉が本当であるならば、何とかしてこの局面をやり過ごし、好機を待つべきだと考えた。
焦って動くことは、無駄に自分や仲間を危険に晒すだけだ。
これ以上の失態を重ねたら――自分が自分を許せない!
「……わかりました。仕事の内容を教えて下さい」
レネは静かに、しかしはっきりと答えた。
その言葉に含まれた意味はただひとつ、今は従い、最適なタイミングで反撃する準備を整えることだった。
無駄に挑発することなく、冷静にふるまうことで、相手の油断を誘い、隙を作り出す。
カリナの目に宿る闘志を見て、レネは心の中で力強く頷いた。
自分も、彼女のように強く、守るべきものを守れる人物になりたいと感じる。
その思いが、無力感を感じていた胸の奥に力を与えた。




