第107話「さて、サフルラ村のトニよ……」
「さて、サフルラ村のトニよ……」
ギーシャルはそう言った後、考え込むように目を細めた。
「いや、文官になったのだから、トニ・サフルラとでも名乗るといい。家名が無いと、何かと不便だからな。
特に、この役職では相手に舐められないことが重要だ」
南エンサリア砦の指揮官室で椅子に腰掛けるギーシャルを見て、トニは無言で頷いた。
砦の指揮官より、執政補佐官が上の立場――それだけ確認して、心の中で次の課題を考える。
今後は、誰が上で誰が下なのかという、見えにくい力関係にもっと敏感にならなければならない。
――無知のままでは、いずれ足元をすくわれる。
改めて指揮官室を見回す。部屋の中央には、巨大な地図が壁に掛けられている。その地図には無数の赤い旗が刺さり、魔王軍侵攻の進路や魔物の拠点を示しているようだった。窓の外に広がる荒涼とした大地と、中庭で戦闘訓練を行う兵士達の叫び声が、ここが戦場であることを嫌でも思い出させた。
「さて、いよいよお前の初仕事だな。まずは、これを渡しておく」
ギーシャルが羊皮紙の巻物を取り出し、机の上に置いた。
「解放を希望する人質の名簿だ。それと、魔王軍の要求をすべて飲むと伝えろ」
トニはそれを受け取ると巻物を鞄に仕舞った。
それを確認したギーシャルは頬杖をつき、机を指先でトントンと軽く叩きながら話を続ける。
「お前は人質を取られた事についてどう思う?」
「オイラ――いや、自分に、自分の考えなど、ありやしません」
「なるほど。それはそれで良い返答だ。だが、あえて問うぞ。
人質を取られた事を、貴様はどう思う?」
ギーシャルが愉快そうに鋭い目を細める。
トニは逃げ出したい気持ちを抑え、言葉を選ぶように正直な考えを口に出した。
「人質を取られた事……相手を従わせるなら、いい作戦じゃないか、と思いました。でも、人質の価値、解放のタイミング、解放の意味、それを双方が考えないと成立しない作戦かな、とも」
言い終えたトニは、それで正解かを確認するようにギーシャルを見やる。
ギーシャルの口元がゆっくりと弧を描く、それはまるで傷跡が笑っているようだった。
どうやらギーシャルが望んだ答えだったらしい。
「正解だ、トニ。お前が『人質は卑劣だ』とか眠たくなるような返事をするなら話はここまでだったのだがな。人質解放の件が終わった後の、お前の処遇については私の権限をもって考えさせてもらおう」
突如始まっていたらしいギーシャルの試験に、正解していたらしい。
むしろ、見限られていた方がありがたかった――という気持ちを抑え、トニは引きつった作り笑いをしてみせた。
「では、私の問いに正解した貴様には追加の指令を出そう。
名簿にある『ミリアーナ・ディエフス』……彼女だけは、どんなことがあっても必ず解放させろ。
魔王軍がこの名簿の価値に気づいて、別の人質を解放すると言い出さないか、私はそれを危惧している。私の言いたい意味は分かるな?」
トニは頷く。ギーシャルの懸念は尤もだと思った。
「そして、私のもうひとつの懸念も話しておこう。お前が逃げ出さないかという事だ。
今のところ、お前にとっての利点は、我がエンサリア共和国の文官に採用されたという事だけだからな。まあ、それでも貴様にとって損はない高待遇だとは思うが」
ギーシャルは微動だにせず、冷たい瞳でトニを見つめる。
その無表情には、わずかな隙も見当たらない。
「そこは安心してくだせえ。自分も、今のこの地位は、手放したくない、です」
トニは一瞬だけ視線を伏せてから、慎重に言葉を選びながら答えた。
「信じよう。ただ、私もなかなか臆病者でな。保険というものは、いくつでもかけておく主義だ。
トニ、お前も覚えておくことだ。この世は――知恵のある者だけが生き延びられる。
特に権力の中枢に近づけば、近づくほどにな」
その言葉にトニは頷くが、頭の中には「保険」という言葉が不穏にこだまする。
ギーシャルが何かを隠しているのは明白だった。
そして、彼の言葉の裏には、トニを試す意図が込められている。
「保険、ですか?」
「そうだ。私の言っている意味はわかるな?」
問われて考える。この男はさっき「正解」と言った。「合格」とは言わなかった。
――ギーシャルの試験はまだ終わっていない?
恐らくこれはただの問答ではない。
ここ数日、泳がされていたこと、そして先程のギーシャルとのやり取りに何か答えがあるに違いない。
ギーシャルは、それを探してみせろと言っているのだ。
考え込むトニの脳裏に、ある考えが閃く。同時に、背筋を氷が這うような感覚が走った。
文官採用時に、身辺調査として自分の家族の事を入念に聞き取られていたが――
「まさか妹を……レネを人質に!?」
自らの声が震えるのを感じた。全身から血の気が引く音が聞こえる。
ギーシャルはその冷酷な瞳をさらに細めると、爬虫類のような笑みを浮かべた。
「合格だ。おめでとう、トニ・サフルラ外交官」
その瞬間、トニはギーシャルの言葉の冷たさが、自分の心の奥底に爪を立てるように響くのを感じた。
* * *
「困ったのう。どうしたものか……」
針金のような手で顎らしき部分をさするザルバスは、なおも唸り続けている。
「ま、まさかその名簿の中の人は、もう生きてないとか?!」
トニは魔物への恐怖を忘れ、ザルバスのどこが肩だか分からない部分を掴んで揺さぶる。
――冗談じゃない!
こっちは大事な妹が共和国……いや、ギーシャルに人質に取られているというのに!
「待て待て! 落ち着かんか、トニ! 生きとる、生きとる! 人質は全員生きておる!」
ザルバスが大きな目を白黒させながら答える。
その返事に、トニは安堵のため息を漏らした。
「ただ、ちょっと厄介な人物の名前を見つけてな」
ザルバスが再び困ったように目を細める。
「それは誰でやすか?」
「ミリアーナ・ディエフスという女じゃ」
トニは、その答えに膝から崩れ落ちた。
自分の運の良さは、どこへ消えたというのか。




