第106話「人質を解放する約束は守るつもりなんじゃが――」
クワリオス鉱山砦へと続く深い森の中。
冷たい風が曇り空の下を吹き抜ける。森は静まり返り、遠くで鳥が一羽鳴くだけの閑寂が広がっている。左右の深い森は、その繁みが幾重にも重なり、昼間であるはずの正午の光を遮っていた。
不意に馬が怯えた様子でゆっくりと足を止めた。トニは馬が警戒している方向を見ると、一本道の真ん中に〝何か〟が佇んでいるのが見える。それは実に奇妙な物体だった。人の頭ほどの大きさの黒い毛玉が、宙に浮いているようだ。それは異質な存在感があるにもかかわらず、音もなくそこにあるだけで、周囲の自然に溶け込んでいるようにも感じる。
トニは馬から降りると恐る恐る、それに近づく。毛玉の正面には巨大なひとつ目が閉じられている。それだけでも不気味だったが、浮いているのではなく、針金のように細い二本の足でしっかりと立っているのが分かった。
恐らく四日前に会ったザルバスだと思うが、その時はコウモリのような翼で空を飛び回っていたはずだ。しかし、今目の前にいる〝これ〟は、あの威圧的な姿とは全く異なり、どこか滑稽さすら漂わせている。しかも、毛玉の両脇から針金のような腕がだらりと垂れ、その手には一枚の板が持たれていることに気づいた。
その板には意外に達筆な字で『トニへ―― 到着したら声をかけよ。ザルバス』と書かれている。
その簡潔な指示が、不穏な森の空気と相まって緊張感を生み出す。向こうから声をかけられた方が、幾分はマシだったのだが……言うなれば、死刑執行の合図を自分でやれと言われているような、そんな感じがする。トニは自分の喉が鳴る音さえ耳障りに感じながら、恐る恐るその魔物に問いかけた。
「……ザルバスの旦那?」
次の瞬間、音もなく顔ぐらいの大きさのひとつ目が見開かれる。
そして、瞳だけで周囲を見回した後に、トニへと視線を合わせた。
その異様さに、トニがたまらず尻餅をつく。
「おお。来たか、トニ。驚かせてすまんな」
その身体のどこから喋っているのか不明だが、魔物――ザルバスが愉快そうに目を細める。
「は、羽が無くなっちまったんですか?」
思いの外、普通な会話である事に肩の力が抜ける。トニは立ち上がりながら尋ねた。
「常に飛んでいたら魔力消耗が激しい事に気がついてな。簡易的な手足を付けてみた」
そう言うと、針金のような腕を振り、針金のような指を開いたり閉じたりして見せる。
いくらなんでも簡易過ぎるだろう……とも思ったが、あえて言及は避けた。
そもそも、そんな取ってつけたように手足が生えてくる生き物など聞いたこともない。
「そ、そうでやすか……」
トニが自分(?)の機能に興味を示したと思い込んだのか、ザルバスが得意げに言葉を続ける。
「もちろん、翼もちゃんとあるぞ。ほれ、このとおり」
バサッと翼を広げる音が森に響く。ザルバスは自慢げに、背中のコウモリのような翼を見せつける。
「そ、それよりも、ザルバスの旦那! エンサリア共和国に魔王軍の要求を伝えてきました。そちらの要求を全て飲んで、クワリオス鉱山には手出ししないって話です。それと、開放して欲しい人質の名簿を持ってきやした」
「そうかそうか。まあ、お前の服装を見た瞬間から、だいたい察しはついておったがな。
文官に採用されたんじゃろう? よかったのう。一兵卒から大出世ではないか」
まるで近所の世話好きな好々爺といった口調で、ザルバスは名簿が書かれた羊皮紙を受け取る。
「ふん。紙の利用が庶民の間でも一般的になってきた時代に、わざわざ羊皮紙ときたか。
エンサリア共和国の歴史の浅さに対する劣等感はよほど根深いと見える……」
ザルバスが呆れたように呟きながら、その針金のような手と指を器用に扱って巻物を開く。
そして、名簿を上から順に確認し、「う~ん」と唸りながら何やら考え込んだ。
「……ど、どうかされやしたか?」
「いや、そのなあ……
人質を解放する約束は守るつもりなんじゃが――」
ザルバスが歯切れ悪く言い淀む。トニが瞬間的に思ったのは名簿にある人質が既に亡くなっているという最悪のパターンだった。
トニは南エンサリア砦を出る時に、ギーシャルと名乗った執政補佐官の冷たい顔を思い出す。




