第105話「ともよ……」
尾本の目の前で、牧村涼一がデスクに突っ伏した。
咳き込むたびに、口元から鮮やかな血が吐き出され、白いワイシャツにじわじわと広がる赤が視界に焼きつく。机の上に飾られた妻と幼い娘の写真にもかかった血を指で拭いながら、牧村がその背中を小刻みに震わせている。
「ともよ……」
娘の名前を呟きながら、牧村が再び咳き込む。
普段の厳格な牧村には見えない、思いがけない弱さと父親としての顔がちらつく。
「牧村さん!?」
尾本も徹夜五日目のせいか喉が張りついてうまく声が出ない。
胸の奥がじくじくと痛む。これがブラック企業の現実だと痛感しながらも、自分がその現実から抜け出せないことへの絶望が心を締めつける。
「……大丈夫だ……考えろ、尾本……考えろ……方法はある……」
牧村は顔を伏せたまま、断続的に言葉を絞り出す。
「尾本……ライブラリの……バージョンを落とせ……」
震えて手を振る牧村。その仕草は助けを拒むようでもあり、同時に助けを求めているようでもあった。
尾本は歯を食いしばり、気づけば小さな声が口から漏れていた。
「もう無理だよ……」
その瞬間、甲高いアラーム音が耳を貫いた。
* * *
目を開けると、暗い天井が視界に入った。尾本はデスクに突っ伏していた体を起こし、深く息を吸い込む。胸がざわつき、手が無意識に口元を探る。だが、指先に触れるのは無精髭の感触だけだった。
「……夢か……」
牧村が吐血した光景がまだ脳裏に焼きついている。それでも、ここはいつもの深夜の開発室だった。
冷房の効きすぎた空気が肌を刺すようだ。喉と胃が鈍く痛むが、それが夢のストレスから来るものではなく、冷え切った体のせいだと理解する。尾本は冷たい汗をぬぐい、モニターの電源を入れた。
asdlkjloi;asaおはようございますyっっp@@あさっd
モニターに映し出された謎の文字列を見た尾本は、思わず眉間に手をやる。どうやら仮眠中、無意識にキーボードを叩いていたらしい。日本語入力と英数字入力が混ざり、唐突に挿入された「おはようございます」の文字列が妙に浮いている。
「おいおい、誰に挨拶してんだよ、俺さんは」
苦笑しながら文字列を一気に削除する。その瞬間、「おはようございます」の一言が脳裏に引っかかった。時刻は午前2時。夜明け前の時間帯に、この挨拶は妙に皮肉めいている。
尾本はモニターから目を逸らし、ぼんやりと天井を見上げた。静まり返った開発室の冷たい空気により、徐々に頭が冴えていくのが自分でもわかる。
リモートで広瀬が指示してくれたおかげでルーターの交換は意外すぎるほどあっさりと片付いた。無事に社内ネットワークは数時間で復活し、なんやかんやあったが顧客への被害がゼロだったのは救いだったかもしれない。そして、社内的には夕方から深夜にかけて、サーバーにアクセスできなかったというだけで済んだのも幸運だったろう。むしろ『今日は仕事ができないから早く帰れる!』と顔には出さないものの大喜びしている社員は多いと思う。
「まあ、俺は今日も残業なわけだけど」
ちなみに偉大なる弊社のシャッチョサーンのご厚意により、開発室リーダー職には『見做し残業制度』が採用されている。『実際に残業を行っていなくても、あらかじめ一定の残業時間が給与に含まれている制度』と言えば聞こえはいいが、残業が当たり前になっている上に『一定の残業時間』なんぞ、毎月余裕でオーバーしているわけで、実質手取りは下がってリーダー手当が入ってもマイナスである。
そして今夜も残業だ。ただでさえ納期が迫って焦っているのに、ルーター故障の一件で気力も体力もごっそり削られた。前職のブラック企業よりも闇深い〝超暗黒企業〟で、毎日デスマーチを繰り返していた頃に比べれば、被害者が自分ひとりで済む分まだマシ――そんなふうに考えてしまう自分が、本当に怖い。
「もう、いっそ異世界に永住するかな……お前はどう思う?」
尾本は隣の椅子に置かれた猫のぬいぐるみに声を掛ける。なんかこのぬいぐるみ……微妙に自分に似てるような気がする。見た目というか雰囲気が。そして、そのトボけた表情が「そんなの知らん」と言っているように思えた。
「なんてな。実家の花屋は兄貴が継いでくれてるから安心だけど、親の老後とか心配だしな。
ましてや広瀬に仕事を押し付けてまで異世界……いや、他社にだって行けないっての!」
ぼやいた後に懐から懐中時計を取り出す。
不気味な速さで針が回転していた。つまり、逆にこちらの時間の流れが遅いという事だ。
恐らく、異世界では勇者アヤトが冒険をしているのだろう。
「だから……今の俺がみんなにやってやれる事といったら、ダイエットだけだ」
机の上に置かれたエナジードリンクを手に取ると、カロリー表示を見て冷蔵庫へ戻した。
代わりに急須に湯を注ぎ、出がらしの茶葉からわずかな緑茶を絞り出す。「緑茶に含まれるカテキンは脂肪の燃焼を促進し、代謝を上げるんです!」と熱弁していたどこかの女子大生の顔が頭をよぎり、尾本は少し笑った。
湯気が立ち上る急須を見つめながら、ほんのり香る緑茶の香りを吸い込む。
それだけで胸のざわつきが静かに和らいでいくようだった。




