第104話「頼む――」
馬車の車輪がぎしぎしと音を立てながら、土埃を巻き上げて進んでいく。舗装されていない道はところどころに凹凸があり、そのたびに荷台の座面が不安定に揺れる。レネは座席の端でしっかりと荷台に掴まりながら、目の前に広がる薄曇りの風景をぼんやりと見つめていた。
見上げた空はどこまでも灰色に覆われている。曇り空が続いているせいで、空の低さが胸に重くのしかかるようだった。鬱蒼とした森が果てしなく続き、その遥か先には鋭い突起が天を刺すように連なる岩山がそびえているのが見えた。まるで鍾乳洞を裏返したような不気味な形状だ。その中腹には黒ずんだ砦が霞んで見える。火事の名残らしき煤汚れがその壁に滲んでいたが、それだけでは説明できない得体の知れない気配が漂っていた。
「不気味な形をしているでしょう?」
対面に座っていた文官アルレンが、レネの視線に気づき振り返りながら眼鏡を押し上げた。
「あれがクワリオス鉱山とその砦です」
「で、その砦が数日前に魔王軍に落とされた。あんたの兄貴はそいつらとの交渉役をやるんだとよ」
女兵士カリナが手綱を引きながら鼻を鳴らす。
「つまり、話が通じる相手ってことですよね。もしかしたら、彼らと共存できれば……」
レネがそう呟くと、アルレンは眼鏡を外して服の裾で拭きながら答える。
「魔王軍幹部はともかく、魔物自体は話どころか知性すら怪しいですから、どうでしょうね」
尤もな意見だ、とレネは思った。
この大陸で生活していれば、嫌でも魔物と遭遇する機会は多い。家畜はおろか、村民も魔物に襲われて何人も命を落としている。
魔物の襲撃には明確な目的が見当たらない。人や家畜を襲い、田畑を荒らして去る――それが彼らの行動の全てだった。そして、戦って倒したとしても、死体も残さず青白い光の塵になって消えるだけで、肥料として大地に還る事もない。明らかに自然の摂理に反した存在。
――その存在が、ただの災害以外の何かであるとすれば?
魔物とは何か? その答えが、ただの災害を超えた真実に繋がるのではないか――その考えが、レネの胸に消えない灯火のように宿っていた。
「静かに――!」
不意に、カリナが視線を森の方に向けた。背中越しに見える彼女の横顔には緊張の色が見える。彼女の目線の先、茂みが一瞬揺れたように見えたが、すぐに静けさが戻る。
無言のまま手綱を引く姿には、道中のどこかに潜む危険への警戒心が漂っているようだった。
アルレンが眼鏡をかけ直すと、腰に付けた短剣に手を伸ばす。頼りない風貌に騙されていたが、アルレンの落ち着いた表情からは、幾度も修羅場を経験してきた者だけが持つであろう余裕が感じられる。
「今、男の人の叫び声がしましたよね?」
アルレンが小声でカリナに問うと、彼女も静かに頷く。
「意外だね。あんたも気がつくとは」
「まあ、伊達にこの仕事を長年しているわけもなく……。
それより、どうします? 無視した方がいいと私は思うのですが」
アルレンの冷たい提案に、カリナも「同感だね」と短く答え、馬にムチを打つ。
上がった速度と彼らの選択にレネが驚いて目を見開いていると、アルレンが穏やかな表情に戻る。
「レネさんを無事に南エンサリア砦に届ける事が、私達にとっての最優先事項なのですよ」
「それに嫌な予感が――って、予感的中かい!」
眼の前の林から、二人の町人風の若者が転がるように馬車の前に飛び出してきた。
カリナは驚きとともに手綱を強く引き、馬車を急停止させる。馬が首を振り、前足を踏ん張った拍子に馬車が大きく揺れた。
荷台のレネとアルレンも、不意を突かれ手すりにしがみつく。
荷物が跳ね、大きな音を立てて荷台の上を転がった。
「た、助けてくれっ! 野盗に襲われた!」
ひとりの若者の背中には矢が深々と刺さっていた。
その位置と深さから、肺に達している可能性も――レネはそう判断し、迷うことなく馬車から飛び降りた。
「危ないですよ、レネさん!」
「おい! ちょっと待ちなって、レネ!
くそっ! 華奢なくせに何でそんなに足が早いんだい!」
アルレンとカリナが慌ててレネの後に続く。
「その制服……あんた、 魔術技師さんなんだよな!?」
無傷な方の若者がレネに詰め寄る。
「まだ見習い以前ですが治癒魔法ならば使えます。どうか安心してください」
レネは冷静に答えると、背中に矢の刺さった若者の傷を観察した。
出血は少なく、既に固まりかけているようだ。
見た目ほど深刻ではないかもしれないが、念のため魔法で調べる必要がある。
レネの手のひらに青白い魔法陣が淡く浮かび上がった。
「頼む――」
傷を負った若者が、か細い声で言葉を絞り出すと、震える手でレネの細い腕を掴んだ。
励ますようにレネが微笑みかけたその瞬間、若者の表情が豹変した。
唇が不気味に歪み、レネの全身に寒気が走る。
「ちゃんと、俺等の役に立ってくれよ」
「え?」
次の瞬間、暗闇が彼女を包む。粗い布が頭に被せられ、薬草のような異臭が鼻を突いた。息を吸い込むたびに意識がぼんやりと遠のいていく。手を振り上げて抵抗しようとしたが、腕に力が入らない。
視界が閉ざされるのと同時に、身体が地面に崩れ落ちる感覚――




