第103話「そこで提案なんですがね」
薄曇りの早朝――
南エンサリア砦の裏門に面した街道沿いでは、草むらの間から微かな霧が立ち上り、幻想的な雰囲気を醸し出していた。道の両側には野の花がひっそりと咲き誇り、湿った土の香りが漂ってくる。
その穏やかな静けさを破るように、旅の出発準備を急ぐ傭兵たちの足音や、馬車の荷物を運び込む音が響き始め、次第に活気が増していく様子が感じられた。
地平線近くの雲の縁がかすかに明るくなり、遠くの木々のシルエットが薄明かりに浮かび上がる。鳥のさえずりが澄んだ空気に響き渡り、薄曇りの空を桜色の光が静かに染め始めた。
オウリィ・カラドグラムは、旅路の始まりを告げるこの景色を見つめながら、細い目をさらに細めて心地よさげに息を吐いた。
「オウリィの旦那、勇者さん達へのご挨拶を済ませてきましたよ」
傭兵隊『銀翼の鷲』の隊長であるセリーナが、ウェーブのかかった赤い長髪を後ろでひとつ結びしながらオウリィに近づいてくる。久しぶりに大きな街にゆっくりと滞在できたからか、昨夜は隊員たちと夜遅くまで酒屋で呑んで騒いで楽しんでいたらしい。五十代後半にしては少ししゃがれた声が、今朝はさらに少し掠れている。もっとも、彼女自身にはまったく疲れた様子は見えないが。
「予定ではもう少しゆっくりしていくつもりだったんですが……
急がせてすみませんでした、セリーナ隊長」
「これ以上滞在してたら、うちの連中が街中の酒を飲み干していたかもしれないんで、そこはお気になさらず。それより、私にはこの商隊の移動速度の方が気がかりでしてね。カルマラ自由都市への連絡は急いだ方がいいんじゃないかと」
セリーナの考えは尤もな話で、オウリィもどうにかならないかと考えてはいた。
普通に行けば南エンサリア砦からカルマラ自由都市までは、それなりに長い道のりだ。例えば、商隊を移動速度で分け、足の早い者たちを先行させれば、少しでも早く到着できる可能性もあるだろう。だが、商隊をふたつに分ければ、野盗や魔物に襲われた時のリスクは単純に倍になる。
――しかし、それでも、だ。
オウリィは懐から親書を取り出し、その重みを指先で確かめるように握り直した。些細な時間の遅れが命運を分ける場面を、これまで何度も経験してきた。
「この親書を届ける速さが、私の価値を決める可能性は……確かに高いでしょう」
落ちぶれた商人の息子である自分が、国家間の親書を任される――それだけでも十分に意味がある。偶然に手に入れた任務ではあるが、これを成功させれば、オウリィが他国の重鎮たちからも信頼を得る存在になったのだと、他の商人達に示せるだろう。
さらに、この親書には発行日時が記されている。議長がこれを手にした瞬間、親書がどれほどの速さで届けられたかを一目で理解するはずだ。その速さこそが、商人の国であるカルマラでの、オウリィの評価を高める決定的な要素になり得る。
セリーナは、オウリィの言葉に深く頷く。その表情には、彼の決意をどこか楽しんでいるような色があった。
「同感ですね。その親書の価値なんぞ、たかが知れてるでしょうがね。ただ、カルマラの十一人議会に顔を出すなら、これ以上ない好機じゃないかと思うんですよ」
「十一人議会……そうですね」
その言葉を忘れた事は一度も無かったが、こうして口にするのはいつ以来だろう、とオウリィは故郷であるカルマラ自由都市がある東の空を見上げた。
カルマラ自由都市国家は、かつてアルヴァリス王国の一都市にすぎなかった。しかし、王国が財政難に陥った際、莫大な資金を提供することで自治権を獲得し、独立を果たしたという歴史を持つ。カルマラの政府は貴族ではなく、十一人の大商人やギルドの代表たちで構成されており、彼ら『十一人議会』と呼ばれる組織が国政を動かしていた。
かつて、カラドグラム家はその議会の一員だった。しかし今では、オウリィ率いる商会は彼と新人の商人であるマレクを含めてもわずか四人。議会の末席にいた頃の華々しい面影はほとんどない。だが、それでもオウリィは諦めていなかった。
卑劣な罠によりカラドグラム家を没落させ、その席を奪った商人であるダリウスの存在が頭をよぎる。ダリウスの手に落ちた議会の席を取り戻し、カラドグラム家を再興する。それこそがオウリィの野望だ。
そのためにも、この親書を早く議会に届けることには大きな意味がある。「カラドグラム家の息子は、まだここにいるぞ」と、敵に知らしめるためにも。
しかし、その野望を追い求める中で、いつも思い悩むことがある。
――仲間の安全を軽視してまで、自分の夢や商会の利益を優先すべきなのか?
家を再興したとしても、仲間の信頼を失えば、それは商人としての敗北だ。
オウリィは「商人としてダリウスと戦う」と誓った意味を改めて噛みしめた。
敵味方双方の血が流れることだけは絶対に避けたい。
それは商人としての信念であり、オウリィの人間としての矜持でもあった。
オウリィの葛藤を察したのか、セリーナが白い歯を見せて、ニヤリと笑う。
「そこで提案なんですがね。そろそろ、マレクに試練を与えてみちゃどうかと」
「ふむ。マレクが『銀翼の鷲』を抜けて、私の元で商人としての修行を始めて、そろそろ二年ですか。
そろそろ何か大きな仕事を任せてみようと考えてはいましたが……どうされるおつもりなんですか?」
「つまり、こうです。オウリィの旦那は速度重視の軽馬車で先行してください。商隊の本隊はマレクに指揮させます。それで、カルマラまでのオウリィの旦那の護衛なんですが……実は、勇者さん達に交渉済みでして――」
セリーナの言葉にオウリィの目が見開かれる。
「なんと! 勇者様はそれで了承されてるのですか?」
「勇者さん達もそれでいいそうです。ただし、アヤトの旦那とアイリスちゃんは定期的に元の世界に戻る必要があるそうで、その間はペローの旦那だけでオウリィの旦那を護衛する事にはなるそうなんですが」
「ペロー様がですか? いや、随分と私に話しかけてくださるとは思っていましたが、護衛まで引き受けてくださるとは……」
「とは言え、勇者さんに全部頼りっきりってのも気が引けるんで、銀翼の鷲からはエリサを同行させます。
あの子は馬の扱いはもちろん、弓の腕もウチの隊で一番ですからね。それに、こういった経験も必要だと思いまして。どうです、旦那?」
エリサの弓兵としての才能は、オウリィもよく知っていた。その正確無比な射撃技術は、商隊の食糧調達に大いに貢献してくれている。さらに、幼い頃から馬と共に育ち、馬の体調を瞬時に見抜く観察眼も持っていた。
性格は明るく真面目で実直。少人数での急ぐ旅の仲間として、これほど頼もしい者はいまい。
ただし、真面目すぎるあまり、少し柔軟性に欠けるという一面もある。以前、馬車が壊れた際には、必要以上の完璧さを求めて修理を始め、旅の行程が大幅に遅れてしまったことがある。そんな彼女にとって、時間や状況に柔軟に対応するための経験を積むには、今回の任務は格好の機会かもしれない。
「ありがとうございます、セリーナ隊長。本当に、どう感謝して良いやら……」
オウリィは深々と頭を下げた。本来ならば、野盗や魔物といった外敵から自分たち商人を守ることだけが、彼ら傭兵隊の仕事であるはずだ。しかし、『銀翼の鷲』はその範疇を超え、常に一歩先を行く姿勢を見せてくれている。その姿はお世辞ではなく、傭兵隊というよりも騎士団に近いと言えるだろう。
もっとも、実際にセリーナ隊長も、レオフォルト副隊長も、かなり高貴な家の出身ではあるらしいのだが。
「よしてくださいよ、オウリィの旦那。それに、感謝の言葉はレオフォルトに言ってやってください。ほぼ、ヤツの入れ知恵なんで」
「よく言いますね、セリーナ隊長。オウリィ殿を助けたいから何とかしろとおっしゃったのは、あなたじゃないですか。何でもかんでも他人のせいにするの、隊長の悪いところですよ」
話を横で聞いていたのか、レオフォルトが荷物を運びながら笑う。
「なんだい。盗み聞きとは感心しないねぇ、レオフォルト副隊長」
「そりゃどうも。育ちが悪いもんで、すみませんね」
照れ隠しなのか、背中を見せたまま手をひらひらとさせて去っていくレオフォルトに、オウリィとセリーナは顔を見合わせ、思わず笑みをこぼした。




