第099話「兄のことをご存知なのですか?」
サフルラ村にエンサリア共和国の文官と護衛兵が姿を見せたのは、二日前の薄曇りの朝のことだった。
村の木々にかかった霧が次第に晴れていく中、荷馬車が中央広場に停められると、村人たちは家々から出てきて様子を窺い始めた。若い文官の眼鏡と、兵士の磨き上げられた甲冑が朝の光を受けて鈍く輝いている。
村の誰もが、彼ら二人がこの辺鄙な村に来た理由を知っていると――信じて疑わなかった。
レネが魔術師会に召集されるためだ。本人も、その両親も、村人全員がそう思い込んでいた。
しかし、静まり返る広場の中心で文官が荷馬車の上に立ち、巻物を取り出してその内容を読み上げた瞬間、村の空気が変わった。予想外の言葉が紡がれるたびに、人々は顔を見合わせ、ざわめきが広がっていく。
「サフルラ村のトニの妹であるレネよ、そちらの兄であるトニが我がエンサリア共和国の文官に採用された。今すぐに本国へ来て、トニを支援せよ。また、レネには並行して魔術技師としての高等教育を受けることも命じる」
その場にいた誰もが耳を疑った。村人たちは驚きのあまり息を呑み、ざわめきすら起こらない。ただ、冷たい風だけが静かな集落を吹き抜けていく。
「トニが……文官?」
母が掠れた声で呟く。父も、硬い顔をして黙り込んでいた。十数年前に家を飛び出したトニがどこでどうしているかも分からなかったというのに。いや、もはや生きていないのではないか、そんな考えを抱え続けてきたというのに――
* * *
かつては不毛な土地だったサフルラ村だが、村民たちは諦めることなく耕し続け、今では蕎麦やベリー類といった作物が安定して収穫できるようになっていた。収穫量はまだ決して多くはないが、それでも、少しずつ村に活気がでてきた。子どもたちの笑い声が絶えない村になったのは、村民全員の努力の賜物だろう。
また、信心深いレネの両親が女神に祈り続けたおかげだろうか。レネは十八歳になった今年の春に、まるで天啓のように魔法の才能を開花させた。今は簡単な治癒魔法しか使えないものの、魔術技師としての初等教育すら受けていないにも関わらず、それを「使える」という事実だけで村に希望の光をもたらした。
村人たちは、レネの才能を女神から授かった贈り物だと信じて疑わなかった。両親もまた、彼女を神聖な存在のように扱い、村人たちも彼女を宝物のように大切にした。しかし、その祝福された日々の中にも、ひとつだけ影を落とすものがあった。それが、村を飛び出したきり戻らない兄のトニの存在だった。
「兄さん……生きていただけでも驚きなのに、文官になってるだなんて……」
レネは魔術技師見習いの制服に身を包み、荷馬車の硬い木製の座面に身を預けながら小さく呟いた。飾り気のないくすんだ水色の制服が、薄曇りの空の色と重なり、晴れ晴れしさはない。どこか胸の奥がざらつく。兄と再会できることに心のどこかで安堵を覚えながらも、しこりのような違和感が完全に拭えない。
「レネさんは、あまり兄上とは似ておられませんね?」
向かいに座る若い文官――アルレンが、車輪の揺れに合わせて肩を上下させながら、眼鏡越しにぎこちない笑顔を浮かべる。しかし、レネと視線があった瞬間に焦ったように視線を泳がせる仕草から、この話題を持ち出したことを後悔しているのが見て取れた。
子供の頃にもよく言われた言葉だ。柔らかく長い銀髪と整った顔立ち――この辺りでは珍しい外見だと自覚している。また、生来の無表情さと口数の少なさからだろうが「まるで女神像のようだ」という村民の称賛に関しては、素直に褒め言葉とは受け取れなかった。
「兄のことをご存知なのですか?」
彼の口ぶりから兄を知っている事は見て取れた。レネは静かな声で問い返す。
「一方的に、ですけどね。これから向かう南エンサリア砦では、彼はちょっとした有名人ですよ。一塊の雑兵に過ぎなかったのに、魔王軍の捕虜にされて、今では魔王軍との唯一の交渉窓口になって――」
その言葉を口にした瞬間、アルレンは「あっ」と短く声を漏らし、慌てて口を手で覆った。その仕草があまりに分かりやすい動揺だったので、レネは思わず眉をひそめる。
アルレンの視線が横に逸れる。荷馬車を操る護衛の兵士が振り返って冷ややかな目でアルレンを睨んでいた。アルレンはさらに肩を縮め、声を落として「すみません……」と呟く。その様子を見たレネは肩をすくめながら、軽くため息をついた。
「なるほど。兄が文官なんておかしいと思いました。でも、そんな大事に巻き込まれていたなんて……」
レネのその独り言とも疑問とも言えない呟きに、護衛の兵士がひとつ咳払いをした。
「あたしらも詳細は聞かされていないから詳しくは知らない。
それと、これはあたしの独り言なんだが――」
兵士は荷馬車の揺れに体を任せながら、落ち着いた声で言葉を続ける。 筋肉質な巨体から男性だと思い込んでいたが、その声は野太いが女性のものであることに、レネは今更ながら気がついた。
「あんたはトニが逃げ出さない為の人質みたいなものだってのは、もう気づいてるだろう?
けど、魔術技師ってのは貴重な存在だ。特に治癒魔法が使える者に関しては、どこの部署だって喉から手が出るほど欲しい人材だろうね。だから雑に扱われることはまず無い。そこは安心していいと思う。まあ、人質である以上、あまり自由はないかもしれないが」
レネはその女兵士の独り言に、大きく頷く。
胸の奥が冷たくなるような感覚を覚えながらも、どこかで予想していた通りだと納得する自分がいた。
「見かけによらず、優しいんですね」
アルレンがそう言った瞬間、再び向けられる女兵士の鋭い睨みに動揺したのか、またしても口を手で覆う。
「悪かったね。こんな見かけで」と女兵士は低く呟いたが、その口調には不機嫌さよりも呆れが滲んでいた。
「あたしにも苦労をかけている妹がいる。まあ、ちょっとした気の迷いからの独り言さ」
女兵士は手綱を緩め曇り空を見上げながら呟くと、強面の四角い顔を満面の笑みにして振り返った。
「そう言えば自己紹介がまだだったね。あたしはカリナだ。
うちの妹もまったくあたしにゃ似てないよ。ありがたいことに」
もはや、独り言という方便もどこへやらだ。
レネはカリナのその冗談に笑ったものかどうかと悩み、苦笑いを返す。
「私は……兄や両親とは血が繋がっていません。本当の両親を流行り病で亡くして、遠い親戚だった今の家族に引き取られました。でも家族は……あの人は、私にとっては本当に兄なんです」
レネは最後の言葉を、まるで自分に言い聞かせるように付け加えると、そっと自分の掌を見つめた。
子供の頃、不安そうにしていると、トニがその手をいつも握ってくれたのを思い出す。今、この冷たい曇り空の下、低く垂れ込める灰色の雲を見上げながらも、あの時の温もりが掌に確かに宿っている気がした。




