第090話「も、もう驚かねえぞ!」
教会の扉を潜ったトニは、静寂に包まれた空間で足を止めた。
目の前の女神像を見つめながら、これまでの出来事が脳裏をよぎる。
傭兵隊『銀翼の鷲』に保護され、オウリィ・カラドグラム商会の馬車で南の砦へと運ばれたあの日。南エンサリア砦の警備隊長というリュシアンとかいう貴族の子供(?)とも会ったはずだが、その時は深い傷のせいで意識は朦朧としており、何をどうやり取りしたのかまるで覚えていない。
南エンサリア砦では、傭兵隊副隊長のレオフォルトとともに魔王軍の幹部ザルバスからの伝言を砦の警備隊副隊長シュラウザーに届けた。その後、共和国の執政副長官カーバリオ・ゼルティス――人質となったアーリン・ゼルティスの父親――とその側近からしつこい尋問を受けた。「なぜお前だけが助かった?」と何度も問われたが、そんなものは自分が聞きたいくらいだ。強いて言うなら、持ち前の『悪運の強さ』とでも答えるしかない。
いずれにせよ、ザルバスが「共和国と交渉するのはトニを介してのみ」とレオフォルトに明言してくれたおかげで、共和国側は自分に手出しができない。そこは幸いだった。もっとも、そのせいで自国の監視と保護のもと、心休まる暇もない毎日を送る羽目になっている。
明日は、いよいよザルバスに共和国からの返事を届けることになる――全面降伏を了承し、共和国が解放を望む五名の人質名簿を渡さなければならない。
目的地はクワリオス鉱山砦近くの森だ。その不安が胸を締め付ける。そして、魔王軍とひとりで対峙せねばならない恐怖はあるが、共和国文官としての初仕事でもあり、それなりの高揚感もあった。
「我ながら複雑な気分だ……」
ふと、自分の服装に目をやる。以前のダボダボなエンサリア軍の制服に代わり、今は自分用に仕立てられた深緑の文官の制服を着ている。ボロ布としか言いようがない服を着ていた「サフルラ村のトニ」はもうどこにもいない。子どもの頃からずっと憧れていた「貧しい村から抜け出して、出世する」という夢は、一見すると叶ったようにも見える。
「こういう形で国に召し抱えられることを望んでいたわけじゃないけどな。
それにしても、サフルラ村か……久しぶりに思い出しちまったぜ」
痩せた土地で、ろくに作物も育たない寒村だった。
村の困窮ぶりがあまりにもひどく、性悪で知られる領主がサルフラ村に同情するほどだ。年貢の取り立てを免除した日、トニは喜ぶどころか深い絶望を味わった。
乾いた畑の土を握りしめたその指からこぼれ落ちる砂のように、トニの未来もすり抜けていくような気がしたのだ。
「そういや、家族を捨てて、あの村を飛び出したのは、年貢免除が決まったあの日だったな」
目の前の女神像に目を戻しながら、トニは薄く笑った。
「オイラは知ってるぜ。女神なんていないってな。オイラが文官になれたのは、全て運のおかげだ」
子どもの頃は、それなりに信仰心があったはずだ。けれど、物心がつく頃には失っていた。貧しい村で、どれだけ必死になって祈ってみても何ひとつ変わらなかったからだ。それにも関わらず、貴重な食料を祭壇に捧げ、毎日のように必死に祈る両親の姿には、虚しさと哀れみしか感じなかった。
最終的に自分を助けてくれるのは神ではない。運だ。そして、それを活かす情報と機転だ。どうして、そんな単純な事にも気付かないのか。
幼い妹のレネの手を握りしめ、トニはその場で誓った。
――女神なんて絶対に信じない、と。
今日ここに来たのも、信仰心があったからではない。
しつこい監視の目を逃れられる静かな場所を探して辿り着いたのが、たまたまこの教会だっただけだ。それだけのことだ。
「それにしても……」
この女神像に妹のレネの面影を感じるのは何故だろう。
「レネ、幸せに暮らしているといいけれど……」
天井の高い空間に、外からの冷たい風音が響く。そう言えば、ここしばらく天気が悪いようだ。今年も不作の年になるかもしれない……と、遠くて近い故郷の景色が、ふと頭をよぎった。
天候もまた、運次第だ。そして、明日の魔王軍との接触後のことも。
明日は明日の『自分の悪運』を信じるしかない。
「オイラは女神なんて信じてねぇけどよ。独り言の相手にはちょうど良かったぜ。そんじゃあ、そろそろ寄宿舎に戻るか」
女神像に背を向け、手を軽く振る。
「そんじゃあ、明日も生きてたら、また来てやっても――」
その瞬間、背後から微かな耳鳴りのような音が聞こえた。最初は風の音かと思ったが、違う。
それはどこか人為的で、まるで空気そのものが震えているような響きだった。
「な、なんだ!」
トニは慌てて女神像の方を振り返る。その目に映ったのは、光の渦。それは、まるで生きているかのように渦を巻き、教会の静けさの中に唸りを上げていた。
やがて、トニの視界を刺すような眩しい光が広がった。光の渦の中心に立っていたのは――彼だ。蒼い鎧が柔らかく輝き、栗色の髪が光を浴びて揺れていた。
「勇者アヤト……?!」
その名を呟いた瞬間、背筋が凍るような威厳を前に、トニは息を呑むしかなかった。
圧倒的な存在感に呑まれた彼の目の前で、勇者アヤトが静かに口を開く。
「あれ? 珍しいな。出現時に誰かと会うなんて」
あまりにも普通すぎる勇者の独り言が、神々しい勇者登場の余韻を台無しにした。
「あ、え、えっと――」
冷静さを取り戻しかけたトニだったが、再び光の渦が発生したことで混乱はますます深まった。
「うわっ! ま、またかよ!」
勇者アヤトの隣に広がった光の渦は、先ほどとはまた違う不規則な動きを見せながら空間を歪めていく。
そして、その中心から、新たな人物が現れる。
それは、白い羽飾りのついた帽子と短い白いマントを身にまとった猫耳の少女。
「シャルルさん。こんにちは」
勇者アヤトが、再び普通過ぎる挨拶を猫耳の少女にする。
「シャルルっちだと思った? 残念、ウチだよ!」
猫耳少女が白い牙を見せながらニヤリとアヤトに微笑みかける。
アヤトが慌てて後ずさるが、猫耳少女はそれを上回るスピードでアヤトの腕に絡みついていった。
「か、勘弁してください、アイリスさん……」
「ウチとアヤトの仲じゃん? そんなに邪険にすんなし〜」
勇者アヤトが、カタカタと震えている。
一体、目の前で何が起こっているのか。すでに自分の理解を超えている。
「で? あそこにいるネズミっぽい人は、誰さん?」
猫耳少女の大きな緑色の瞳が思い出したようにトニを捉え、問われたアヤトが我に返る。
「えっと……僕も知らない方です」
「ふーん、そうなんだ? ちわっす。シャルル・アイリスです。ネズミさん?」
興味なさげな表情で、シャルル・アイリスと名乗った猫耳少女が勇者アヤトの腕に抱きついたまま、トニに目を向けた。その瞬間、トニの体がぴくりと反応する。
「え、えっと……オイラ、いや、自分はトニといいます。その、たまたま教会に来ただけで」
本能が「これ以上は関わらない方がいい」と警鐘を鳴らす。
「じ、じゃあ、自分はこれで……!」
急いでその場を離れようとするも、その決意が遅かったことを、次の瞬間に思い知らされることになる。
今度は頭上から、突如として眩い光が降り注いできたのだ。
「も、もう驚かねえぞ!」
呪文のように叫ぶ。手で光を遮りながら、天井を見上げた。
その瞬間、トニの目に映ったのは、まばゆいばかりの白い光に包まれた一人の女性。
彼女は、純白のローブに身を包んでおり、衣装の裾が微かに揺れながら光の中で揺れている。
金色の髪はまるで太陽の光を浴びているかのように光り、ゆっくりと風になびいていた。
「――女神、実在するのかよ」
そのつぶやきとともに、トニの心は完全に震え上がった。
今、目の前に立つのはただの伝説や神話の存在ではない。
女神が肉眼で見ることのできる存在として宙に浮き、自分へと手を差し伸ばしている。
「お祈り中のところすみません、ニンゲンさん。ちょっと席を外していただいてもいいですか?
これから勇者たちと重要な話し合いがあるので――」
そのセリフが、トニの耳に届いた瞬間、彼の意識はもう限界に達していた。
目の前の世界が真っ白に染まり、意識を刈り取っていった。
「そ、そんなに驚かなくても!」
意識が消える瞬間、女神の『普通過ぎる言葉』を聞いた気がした。




