第089話「さて、どうしたもんですかね」
マンション自室の窓の外はすっかり暗くなっていた。
夜の帳が静かに降りる中、女神は机に向かう。ステレオから流れるジャズピアノ曲と、マグカップからただようミルクティーの香りが心地よい。部屋の中はパステルブルーと白を基調にした家具が整然と並び、壁紙には淡い水彩タッチの花柄が描かれている。ベッドにはふわふわのクッションやぬいぐるみが雑然と積み重なり、居心地の良い生活感を漂わせていた。
「ちょっと一息つきますか」
軽く背伸びしながら、女神はペンを置くと机を見下ろした。教科書と参考書が所狭しと並び、その隣にはカラフルな蛍光ペンが散らばっている。
女神にとって、この学生生活はあくまで人間の真似事に過ぎない。
得られた知識が本当に必要かどうかは重要ではなかった。ただ、そのプロセス――わざとらしいまでに「人間らしい」努力や葛藤を楽しむことが重要なのだ。そうやって人間たちの感覚に少しでも近づくことが娯楽であり、自己の探究でもあった。
「とはいえ、GPA3.0以上を維持するなんて縛りは、さすがにやりすぎでしたかね」
軽く肩をすくめながら微笑む彼女の顔には、どこか楽しげな色が浮かんでいる。課題に追われる感覚、締め切り前の小さな焦燥感。それらすべてが、ちょっとしたスパイスとして彼女の日常に彩りを添えていた。
そういえば尾本の部屋を掃除しているときに目が留まったアウトドア雑誌の表紙を思い出す。そこには『不自由を楽しもう!』と大きく書かれていた。なるほど、人間とはなかなか面白い生き物だ、と彼女は思う。その言葉通り、自らも不自由を課すことで、退屈だった景色が少しだけ彩られていくのが分かる。人間は利便性を追求するかと思えば、何かを制限する。そして、その制限の中に工夫や楽しみを見出すのだ。
これは神である自分にはこれまでなかった感覚かもしれない、と彼女は少し感心した。
この事に気づかせてくれた尾本には感謝せねばなるまい――
「それで思い出した……」
同じマンションに押しかける形で住み始め、部屋のスペアキーも預かることになったとはいえ、神に部屋の掃除をさせたり、食事を準備させるなんて、どれだけ女神の寵愛を受けているのだ、あの人間は……
「まあ、世話好きな私が勝手にやっているだけなんですけどね」
などと自分で言ってて恥ずかしさも覚える。
「いやいや、そもそも自分がこんなに色々と甲斐甲斐しくやっているのは、尾本さんを痩せさせることで、自分の守護する異世界ウルファジムの平和を守るという崇高な義務があるのであって――
いつになったら帰ってくるんだろ?」
女神はぽつりと呟き、天井を見上げた。
そして、そのままの姿勢で、視線だけスマホに向ける。
勉強中は触らないようにと、画面を伏せてベッドの枕元に置いていたが……今は休憩中だ。
少しだけなら、いいだろう。ベッドにダイブし、仰向けに寝転がりながらスマホを見た。
待ち受け画面の壁紙は、会心の出来だったお弁当の写真だ。色とりどりの具材を使って、まるでアートのように盛り付けられたその弁当は、見た目も味も完璧だと自負している。
今度はキャラ弁にも挑戦してみよう――そんな、さらにどうでもいいことを考えながらも、表示されている時刻が『23:35』になっている事にため息が出た。もう終電は行ってしまっただろう。
「今夜は会社にお泊りですか?」
スマホに問いかけ、3時間前の尾本とのメッセージのやり取りを眺める。
『HQ、こちらAlpha-1。会社で機器トラブル発生。対処が終わるまで帰れない』
「何なの、このエイチキューとかアルファって? IT関係の業界用語?」
尾本の話す言葉は、時々意味がわからない。異世界の女神の力をもってして理解不能な言語を使うとは、ある意味で超常現象なのだが……まあ、それはいい。それで、そのメッセージに対する自分の返事は「それじゃあ、今夜もお弁当を持っていきしょうか?」だったのだが――
『営業部長が俺を見張ってる。やめといた方がいいかも』
――という、じつに面白くない返事。おのれ、営業部長め。特大の天罰が下ればいいのに。
こちらの存在を相手に分からなくする認識阻害の結界にも限界はある。
お弁当箱だけが宙から現れたりすれば騒ぎになるし、原田みのりや茶山晴秋のように結界をすり抜けてこちらを認識する人間もいる。結局のところ、今回は動かない方が無難だろう。
それで「晩ご飯、帰ってから食べますか?」と送ってみたのだが――
『さっき、お昼のお弁当を食べたから大丈夫~』
というメッセージと共に、やせ細って震えているペンギンのスタンプが送られてきた。
夕方にお昼ご飯を食べても意味がないような気もするが、そうも言ってられない状況なのだろう。
「なんだかなあ」
ため息と同時に省電力モードが起動して、スマホの画面が暗くなった。暗くなった画面に映るのは、明らかに不満そうな自分の顔。
色んな事が腹立たしくなって「べーっ」と舌を出した――瞬間、スマホが振動した。
「え? あっ!? わっ!?」
予期せぬタイミングでの通知に驚いて手が滑り、落下してきたスマホが顔面を直撃。
「痛~!」
鼻を押さえながらベッドの上で転がりまわった。明らかに神格も少し落ちた。
「ちょっと、何なんですか!」
女神は涙目で落ちてきたスマホを叱りつけながら、画面を確認する。
勇者システムの管理アプリが『勇者アヤトがウルファジムにログイン』という通知を表示していた。
尾本の都合のいいように時間が流れているはずだったのだが、あちらの世界では魔王軍によるクワリオス鉱山侵攻から3日が過ぎているではないか。ひょっとしたら、仕事の忙しさから尾本の時間操作の意識が逸れてしまって、時間の流れが変わったのかもしれない。
机の上を改めて確認する。明日のテスト対策は既に終えており、今は3回目の復習をやっている段階だ。つまり、今日はもう休んでもいいと言えばいいわけで、女神フェルネスとして異世界に戻るのはやぶさかではない。
「問題は尾本さん――いや、シャルルが不在ということか」
これまではずっとアヤトだけで問題に対処してもらっているわけで、今回はシャルルがいなくても大丈夫……とも思うのだが、現在の勇者アヤトは星詠みの剣を失い、広範囲攻撃を使うための触媒も失い、大幅に戦力ダウンになっている状況だ。
さらに言えば、魔王軍の動きがまるで読めない。
「さて、どうしたもんですかね」
とは言いつつも、既に答えは出ていた。女神として問題に干渉しすぎるのは本来ルール違反かもしれないが、今回に限ってはそうも言っていられないだろう。ましてや、敵は自分と同じく『神』である可能性が高い。
ベッドの端に鎮座する巨大な猫のぬいぐるみと視線が合う。今日、学校帰りに購入したばかりの子だ。
尾本のオフィスで、広瀬あかりの席にこのぬいぐるみが座っているのを見た瞬間、一目惚れしてしまったのだ。
案の定、以前広瀬に教えてもらった雑貨屋で同じものを発見した時には、自分の推理力に酔いしれた――それはさておき、このぬいぐるみとアイリスに、シャルルの代理を務めてもらうのが最善策だろう。
異世界ウルファジムの守護神たる自分が、そう判断したのだから間違いない。
「そうと決まれば……」
軽く髪をかきあげる仕草とともに、女子大生・星山めぐみの姿は光の粒となってほどけていく。その代わり、現れたのは神々しさをたたえた女神フェルネスの姿。
カジュアルな服は純白のローブへと変わり、ローブには金糸で夜空の星々が描かれている。湧き上がる魔力の風によってたなびくローブが微かに鈴のような音を立て、その神聖さを際立たせた。黒髪は長い金髪へと変わり、柔らかい光を纏いながら背中まで流れ落ちる。
「よし!」
女神はその姿のまま、巨大な猫のぬいぐるみを小脇に抱える。姿見に映る自分――荘厳な女神の姿と愛らしい猫のぬいぐるみという、アンバランスなコントラストが我ながら可笑しく、思わず笑みがこぼれた。
クローゼットの扉をゆっくりと開けると、そこには異世界ウルファジムへと続く『草原と星空の世界』が広がっていた。夜空には無数の星が瞬き、静かな風が草原を撫でていく。夜風が運ぶ若草の香りはどこか清々しく、鼻腔をくすぐった。
フェルネスはぬいぐるみを抱き直すと、星空の世界へと一歩踏み出す。
その足元に広がった光の波紋は、静かに世界を切り替えていった。




