第15話 焦恋の終わらせ方
六月の木曜の夜、商店街の明かりが消え始めるころ、川沿いの道だけは白く残っていた。空気はまだ湿っていて、歩くと腕にぺたりと張り付く。まおはカフェのエプロンを外し、バックヤードの鏡で前髪を指で押さえた。鏡の下に貼ってある小さなメモが目に入る——「急がない。ちゃんと息をする」。
外に出ると、快が堤防の手すりにもたれて待っていた。仕事帰りのシャツの袖をひじまでまくり、手にはスマホ用の小さなジンバル。ライトのスイッチを入れたり切ったりして、明るさを確かめている。まおが近づくと、快は「寒くない?」と聞き、答えを待つ前に自分の上着を差し出した。
「今日は、一本で撮りたい」
まおは上着を受け取りながら言った。昨日までの勢いのままじゃない。言葉が途中でつっかえないように、息を一度だけ整えてから。
快の指がジンバルの握りをゆるめた。
「切らないってこと?」
「うん。切らない。つないだまま。……数字も、流行も、今日は置いていく」
まおはスマホの画面を開き、撮影アプリの設定をいじった。画面の端に出る小さなカウンターを、指で隠す。いつもなら先に確認してしまう場所を、今日は見ない。指先がもぞもぞと落ち着かないのに、目だけは前を向いた。
快は、まおの横顔を見た。彼女のまつ毛が街灯の光で一瞬だけ影を落とし、すぐ戻る。快は頷いた。
「いいと思う。一本撮りだと、歩幅がそのまま出る」
言い終えた後、快は自分の胸の奥にある別の言葉を飲み込んだ。「隣にいたい」は、いつも最後の行に寄ってしまう。
真潤が合流したのは、川沿いのベンチの前だった。いつもの黒いリュック、手には紙コップのコーヒー。まおに一つ渡してから、まおのスマホ画面をのぞき込む。
「今日は、コメント欄は見ない日?」
「見ない。……ていうか、見ないって決めたい」
まおは言って、紙コップを両手で包んだ。指が温まると、胸の奥のざわざわも少しだけ静かになる。
真潤は「じゃあ、聞く」と短く言った。
「まお。誰に影響されたい?」
まおは「え」と声を漏らし、すぐ口を閉じた。即答してしまう癖が、喉の奥で跳ねたからだ。代わりに、歩き出す。カメラを回すのは、快。ライトは最小、顔の影が残るくらい。まおが本当に見せたいのは、顔じゃなくて声だと、快はわかっていた。
撮影が始まる。川の水音、遠くの車の走る音、靴底がアスファルトを撫でる音。まおは歩きながら、声を出した。
「……私、誰に影響されたいんだろ」
言ってしまった後、まおは笑いそうになった。動画の中で自分に質問している。変なのに、変じゃない。今日はそれが必要だ。
真潤が横から、まおの肩を軽く小突いた。
「自分で決めろ。あと、決めたら“続けろ”。三日でやめるな」
「三日でやめない……」
「やめないじゃなくて、やめる日を先に決めるな」
そのとき、草むらから茶色い影が飛び出した。
「わんっ!」
犬が、まおの足元をすり抜けた。首輪の鈴がちりちり鳴り、尻尾がメトロノームみたいに振れている。犬はカメラに向かって一直線、鼻先がレンズに迫る。
「ちょ、ちょっと待って、今、顔が!」
まおが声を上げ、快が反射でジンバルを引いた。犬はさらに跳ね、ライトに反射して目がきらんと光る。真潤は紙コップを片手に持ったまま、犬の進路を塞ごうとして、あっさり避けられた。
「おい、器用だな!」
犬は走る。まおも走る。快は走りながらもカメラを離さない。ジンバルがぶんぶん揺れそうなところを、肘で吸収する。真潤は「俺のコーヒー!」と叫びながら追いかける。三人の足音と犬の鈴が、一本の線みたいに夜の道を引っ張った。
犬が立ち止まったのは、堤防の階段の上だった。そこには、誰かが置いたらしい水飲み皿があり、犬は当然の顔で水を舐め始めた。まおは息を切らしながらしゃがみ、犬の背中をそっと撫でた。毛があたたかい。生き物の体温は、数字みたいに冷たくない。
犬の首輪には、名札が付いていた。小さな文字で、商店街のペットショップの名前。まおは思わず笑った。
「……店の子か。抜け出したんだね」
快がカメラを止めずに、まおの笑いを拾う。まおは犬に話しかけながら、ふと口から言葉がこぼれた。
「私さ、誰かに置いていかれるのが怖くて、先に走っちゃう。……でも、走っても、息が切れるだけだった」
快の胸がきゅっと縮んだ。まおの言葉が、まっすぐ彼の中にも刺さる。快もまた、置いていかれないように“応援”に回ってきた。走る向きを、ずっと間違えていたのかもしれない。
真潤が犬の名札を見て、短く笑う。
「帰る場所あるじゃん。お前も、帰る場所つくれ」
まおは犬を抱き上げ、胸に寄せた。犬は大人しくなり、鈴だけが小さく鳴る。
「……帰る場所って、どこ」
「自分で決めろ。さっきと同じ」
「……じゃあ、今ここ。今の声」
まおは犬を抱えたまま、快のカメラを見た。ライトの白が目に入っても、目をそらさない。まおは、ちゃんと息をして、言った。
「一本撮り、続けたい。毎週木曜の夜、川沿い。誰かの真似じゃなくて、私の散歩」
快は「うん」とだけ返した。返事が短いのは、言い方を飾らないようにしているからだ。彼は、まおの言葉をクレジットみたいに大事に並べ直したい衝動を、必死に抑えた。
犬をペットショップに返すと、店の奥から店長が飛び出してきて、何度も頭を下げた。まおは手を振って「大丈夫です」と言い、最後に犬の頭を撫でた。犬は鼻先でまおの手を押し、名残惜しそうに鳴いた。
川沿いに戻る道すがら、快のスマホが震えた。画面には、会社の上司の名前。快は一歩だけ遅れて、通話に出た。
「はい。……え、地方拠点?」
まおは歩きながら、振り返らずに耳を澄ました。快の声が少しだけ硬くなるのがわかった。
快は「検討します」と言い、相手の言葉を聞いた後、最後に「屋外上映会の翌週までに返答」と繰り返した。通話を切ると、快はスマホを握ったまま、川の水面を見た。ライトの反射が揺れて、どこが終点かわからない。
まおは、快の横に並んだ。上着の袖を指先でつまみ、渡し返す。でも快は受け取らず、まおの肩にもう一度かけ直した。
「寒いから」
「……快くんは?」
「俺は……歩けば温まる」
快の言い方はいつも通りなのに、目だけが落ち着かない。まおはそれを見て、さっきの真潤の言葉を思い出した。“自分で決めろ”。
まおは、ジンバルの持ち手に指を添えた。快の手のすぐ近く。触れないけれど、離れない距離。
「じゃあ、今日のクレジット、私がつける」
まおは小箱を取り出し、ふたを開けた。紙を一枚、折り目もつけずに入れるみたいに、声で書く。
「協力:犬の鈴」
快が、思わず笑った。笑うときだけ、肩の力が抜ける。
「提供:追いかけた三人」
「撮影:走りながらも切らない人」
まおが言うと、快の笑いが少しだけ止まった。止まったのに、視線は逃げない。
川沿いの道に、三人の影が長く伸びた。まおは、走らずに歩く。息が切れない速さで。自分の声が、自分の歩幅にちゃんと付いてくる速さで。




