第14話 舜爾の持続可能
六月の火曜の昼、川沿いの風は昼でも湿っていて、商店街のアーケードの影が短かった。まおは小箱をバッグの外ポケットに差し込み、映像制作会社の入った雑居ビルの階段を上がった。エレベーターの鏡に映る自分は、今日もジャケットがやけにきちんとして見える。けれど胸の奥は、朝のパン屋の甘い匂いと同じくらい落ち着きがない。
扉を開けると、編集室の空気は薄いコーヒーと機械の熱でできていた。快はモニターに向かって、タイムラインの端を指でつまみ、数フレーム単位で動かしている。椅子の背もたれに掛けたパーカーは片袖だけ垂れ、本人は気づいていない。
「……来たんだ」
快が振り向かずに言った。まおの足音の癖を覚えたみたいな言い方だった。
「来た。あのさ、今日こそ——」
まおは言いかけて、息を吸い直した。早口になると、また逃げる道ができる。小箱をポケットから出し、机の端に置く。ふたの「ありがとう」が、室内灯の下でやけに白い。
「快くんの本音、聞きに来た」
言い切った瞬間、快の指が止まった。モニターに映ったままの画面は、商店街のパン屋の看板で、左下に小さく「編集:快」と入っている。まおはその文字に目を落とし、目を逸らさずに続けた。
「『応援する』って言葉、便利だよね。真潤が言ってた」
「……便利だ。俺の逃げ道にもなる」
「じゃあ、逃げないで。今日は、どこに置いていくの? 私? それとも、快くんの名前?」
快が何か言おうとして、口を開いたまま閉じた。代わりに、机の上のスマホが震えた。画面には「舜爾」。快は一度まおを見て、まるで謝るみたいに眉を下げてから出た。
「もしもし」
『快、やばい。今すぐ——いや、落ち着け、俺。落ち着けって言ったのに落ち着けない』
受話器の向こうで、舜爾の呼吸がせわしなく聞こえた。まおは椅子の背を握り、声だけで状況が伝わるのを待つ。
『朝、撮った店。……短い切り抜き、俺、先に上げた。許可の紙が揃う前に。コメントがついてる。「勝手に撮るな」って。店から電話、来た。俺の会社にも。』
舜爾の声が一段低くなる。
『屋外上映会まで時間がないって、思った。数字を落としたくなかった。……で、今、全部落ちかけてる』
快は目を閉じるように瞬きをした。まおの胸が冷える。朝のあのシャッター。真潤の「待つ」。それを、舜爾は自分の手で踏んだ。
「どの店?」
『八百屋。商店街の入口の。』
「今どこ」
『店の前。ひとり。』
「そこで待って。俺、行く」
『……来るのか。助けろって言ってるみたいで、嫌なんだけど』
「提供:今さら」
快が小さく言うと、舜爾が息を飲む音がした。
『……言うなよ、その癖。』
「嫌なら、今だけ外す。——待ってて」
通話が切れる。快は椅子から立ち上がり、ジャケットを掴んだ。まおも反射で立ち上がり、バッグの小箱を抱え直す。
「私も行く」
「まおは——」
快が言いかけたところで、まおは首を横に振った。
「私も関係ある。私の顔も映ってる。逃げない」
商店街の入口は、昼の買い物客でにぎやかだった。八百屋の軒先に並ぶ野菜の緑が鮮やかで、そこだけ映画みたいに色が濃い。けれど舜爾の顔は、色が抜けていた。スマホを握る手の甲が白い。
店主は腕を組み、舜爾の前に立っていた。声は大きくないのに、通りの音が一瞬だけ遠のいた。
「うちはな、撮られるのが嫌なんじゃねえ。順番が嫌なんだ。勝手に上げて、反応見て、怒られたら謝る。そういう順番が嫌だ」
舜爾が口を開く。いつもの資料口調が出そうになって、飲み込んだ。
「……すみませんでした。勝ちたくて、焦りました」
「勝ち負けは知らねえ。うちは毎日ここに立ってんだ。続けるために」
その「続ける」が、舜爾の胸に刺さったのが見えた。まおは小箱を抱えたまま、舜爾の背中を見つめる。朝の自分の息切れが、別の形で目の前にある。
快が一歩前に出て、深く頭を下げた。
「編集をしている快です。先に上げた動画は、今この場で下げます。データも、店の許可が出るまで外に出しません。もし店が良ければ、撮り直しもします。開店後の、店の忙しくない時間に」
言い訳を足さない。声を張らない。けれど店主の目が、快の言葉に乗った。
「……お前が上げたのか?」
「上げたのは舜爾です。僕は止めきれませんでした。協力した側として、謝りに来ました」
快がスマホを操作し、画面を店主に見せる。投稿が消える瞬間、店主の肩がわずかに落ちた。怒りが消えたというより、怒りを置く場所ができたみたいだった。
舜爾が、唇を噛んだまま頭を下げた。背中が、さっきより低い。
「……頼ります。次から、手順を、抜きません」
言い終えたあと、舜爾は自分で自分を睨んだ。言ったのが悔しいのか、言えたのが怖いのか、まおには判別できなかった。
店主はため息をひとつ吐き、野菜のカゴを持ち上げて戻した。
「頼るなら、ちゃんと頼れ。黙って走るな。走ると、誰かの店の前を踏む」
「はい」
八百屋の前を離れたとき、舜爾は歩幅を落とし、商店街の壁に背をつけた。快は少し離れた場所で、さっきの投稿が消えているかを何度も確認している。まおは、舜爾の前に立った。見た目だけは大人のジャケットを直し、ちゃんと息を整える。
「……舜爾くん、無理しすぎ」
まおが言うと、舜爾は笑うでもなく、手のひらで顔を覆った。
「無理してるって言われるのが、一番嫌だ。俺は、設計して、積み上げて、最後に勝つって決めてる」
「勝つって、何?」
まおが聞く。舜爾は答えを探し、指の隙間から空を見た。
「屋外上映会で、客席が埋まって、拍手が出て——」
「拍手は、許可の紙の上には落ちないよ」
いつの間にか、真潤が横に立っていた。手には紙の束。店の連絡先と、撮影許可のフォーム。朝と同じ顔で、昼の光の下でも眠そうに見えた。
「……来たのか」
舜爾が言うと、真潤は紙を舜爾の胸に押し当てた。
「置いとく。君が手順を抜いた分、手順を増やしてやる」
「増やすなよ……」
「増やさないと、今度は店が眠れない。君も眠れない。まおも泣く。私は眠りが浅くなる」
まおが吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。舜爾が少しだけ口元を動かし、そこだけで笑った。たぶん、悔しさの隙間から出た笑いだ。
快が戻ってきて、四人でカフェの端の席に座った。快はノートを開き、エンディングロールの欄に店の名前を一つずつ書き足していく。八百屋、パン屋、古本屋、カフェ。協力の行が増えるほど、画面の最後がにぎやかになる。
「こんなに長くして、見てもらえるかな」
まおが言うと、快はペンを止めずに答えた。
「最後まで見てもらえる形にする。名前を流すって、そういうことだと思う」
舜爾が黙って頷いた。頷き方が、いつもより遅い。
真潤が小箱を見て、ふたの「ありがとう」を指で軽く叩いた。
「これ、回収箱のほう?」
「うん。持ち歩くほう」
「なら、今日の分も入れとけ」
「今日の分?」
まおが聞くと、真潤は視線を舜爾に向けた。
「『頼る』って言った分。さっきの店主に。あと、快に」
舜爾の耳が赤くなるのが見えた。彼は慌ててカップの水を飲み、むせた。見た目だけは大人のふりをしているのは、まおだけじゃない。
舜爾は咳をしながら、まおを見た。視線がまっすぐで、逃げ道がない。
「……しばらく、俺から距離を取ってくれ」
「え」
「俺がしくじると、まおが巻き込まれる。今日みたいに。顔出しは、当面やめろ。快と……散歩のやつだけ、やれ」
言い方は命令みたいなのに、手は膝の上で握りしめられていた。守るために突き放す形だと、まおはわかった。わかったのに、胸が痛い。
快が口を開きかけ、閉じた。代わりに、ノートの余白に一行書き足す。
「提供:やり直し」
真潤が頷く。
「やり直しは、遅くてもいい。遅いほうが、拾えるものがある」
まおは小箱を開け、紙を一枚ちぎった。ペン先が震える。けれど書いた。
――八百屋さんへ、順番を教えてくれて、ありがとう。
――舜爾くんへ、逃げないで頭を下げてくれて、ありがとう。
紙を折り、箱に入れる。ふたを閉めると、小さく「こつ」と音がした。箱が開く音じゃない。箱が受け取る音だ。
まおは快を見た。快の目は、エンディングロールの最後の行——「編集:快」に一瞬だけ止まり、それからまおへ動いた。
「……散歩、一本で撮りたい」
まおが言った。焦恋みたいな勢いじゃなく、息が切れない速さで。
「切らない。つないだまま。ちゃんと、最後まで」
快は小さく頷いた。
「協力:歩幅」
まおが笑う。今日は、むせなかった。




