第13話 真潤の小さな優しさ
六月中旬の土曜、午前四時五十分。商店街のアーケード入口は、まだシャッターが半分眠っていて、空気が冷たかった。コンビニの自動ドアが開くたびに白い光が漏れ、眠気まで吸い込まれそうになる。
まおはジャケットの袖を引っぱって手を隠し、眠そうな息を吐いた。昨夜の泣き跡は、頬の内側にだけ残っている。サングラスは掛けない。隠す道具より、歩幅を合わせてくれた人の隣のほうが、今日は効く気がした。
アーケードの柱の影に、先に立っている人がいた。真潤だ。腕時計を見たまま、顔を上げない。片手に紙の束、もう片手にペン。夜明け前の時間に似合わないほど、仕事の匂いがする。
「来た」
真潤が言う。挨拶は省略。まおの返事も、眠気で半分しか出ない。
「……うん。え、何それ」
「店の許可の控え。あと、撮る場所の順番。舜爾がやりそうな無茶の予防線」
「え、真潤……早起き……できるの?」
「できない。だから最悪」
真潤は言い切って、紙の角を揃えた。揃える仕草が、快と少し似ていた。
背後から足音が二つ。快が来た。目の下に薄い影があり、寝不足がばれているのに、歩き方はいつもどおり落ち着いている。トートの中に小さな白い箱が見えた。ふたの「ありがとう」が、街灯の光を受けて淡く光る。
「提供:眠気」
快がぽつりと呟くと、真潤が即座に返した。
「提供:無茶ぶり」
「協力:早起きできない体」
「協力:断れない人」
まおが笑いそうになり、笑うと咳が出そうで、唇を噛んだ。こんな時間に笑いのリレーを回せるのが、少し救いだった。
そこへ、舜爾が走ってきた。スポーツドリンクを片手に、息が切れていない。顔だけが妙に冴えている。
「お、全員いる。よし。まず、あの惣菜屋の前で撮る。開店前の静けさ、絵になるから」
「開店前は店主が寝てる」
真潤が、感情のない声で釘を刺す。
「起こせばいいだろ」
「起こす前に、許可がない」
真潤は紙束を掲げた。舜爾の視線が紙へ移るが、すぐ逸れた。紙が苦手な人の動きだ。
「許可なんて、撮ってから取れば——」
「撮ってから謝るのは、謝る相手の時間を盗む」
快が言う。声は静かだが、夜明け前の空気を割るように真っすぐだった。
「それに、撮れ高のために誰かを困らせたら、最後の文字が汚れる」
「……最後の文字?」
舜爾が聞き返す。快はトートから小箱を少し出し、側面の薄い印字に指を当てた。
「エンディングロール。そこに載せる名前を、嫌な気持ちで増やしたくない」
舜爾は口を開きかけ、閉じた。言い返す準備が整わないまま、惣菜屋のシャッターががたんと鳴った。中から店主の声が飛ぶ。
「誰だよ、こんな時間に!」
シャッターが少しだけ上がり、眠そうな目が覗く。舜爾が前に出ようとした瞬間、真潤が先に一歩出た。
「すみません。朝五時に騒がせるつもりはありませんでした。今日は許可だけいただきに来ました。撮るのは開店後、店の忙しくない時間にします」
真潤は、紙を差し出す角度まで丁寧だった。店主の目が紙に落ち、眉が下がる。
「……なんだ、ちゃんとしてるじゃねえか」
「ちゃんとしてない人がいるから、ちゃんとする人が必要なんです」
真潤の言い方は辛いのに、店主は笑った。たぶん、眠いと辛口が優しさに聞こえる。
店主が紙に目を通す間、舜爾が歯を食いしばった。まおは、その横顔を見てしまった。勝つために焦る顔。焦ると人の待ち時間を削る顔。昨夜、自分が置いていかれそうで走ろうとしていたのと、どこか似ていた。
許可のサインがもらえた。真潤が頭を下げ、店主は「開店して落ち着いたらな」と言ってシャッターを下ろした。アーケードに、また静けさが戻る。
舜爾が舌打ちを噛み殺す。真潤は舜爾を見ずに言った。
「人はだいたい自分のために動く。店主だって寝たい。君だって勝ちたい。なら、折り合いをつけろ」
「……折り合いのつけ方が遅いと、置いていかれる」
舜爾が吐き出す。まおの胸が、きゅっと縮んだ。
「置いていかれないために、走るの?」
真潤が聞く。舜爾は答えない。
「走ると、息切れするよ」
まおが、昨夜の会話を思い出すように言った。舜爾がちらりと彼女を見る。まおは目を逸らさずに続けた。
「息切れしたまま、好きなもの抱えられない」
その言葉で、舜爾の肩がほんの少し落ちた。快が小さく息を吐き、真潤が紙束を抱え直す。
「次。パン屋。開店は七時。待つ」
「待つのか……」
舜爾の声が弱くなる。真潤は容赦なく頷いた。
「待つ。待てないなら、違う場所を撮る。勝つって、待てる人が最後に強い」
午前七時。パン屋の前で、甘い匂いが漂い始めたころ、舜爾はようやく撮影を回した。まおは笑顔を作るのではなく、眠い顔のまま手を振った。快がカメラの角度を微調整し、真潤が店の前を通る人の動線を黙って避ける。誰も声を張らない。静かな連携が続く。
撮影の合間、真潤がまおを肘で軽くつついた。
「信じるなら、目で確かめろ」
「何を?」
「快が何を隠してるか。舜爾の焦りに流されると、また夜に落ちる」
真潤の言葉は鋭いのに、まおの胸に刺さり方が違った。止めるための刃じゃない。進むための、切れ味だった。
まおが快を見る。快はモニターを覗き込み、撮った映像の端に写り込んだ看板を指でなぞっている。余計なものを消そうとしているのに、消しているのはいつも自分のほうだ——まおは、そんな気がして苦しくなった。
真潤は快にも向けて言った。
「応援って言葉、便利だよね」
快の指が止まる。
「便利だから、つい使う」
「逃げ道にもなる」
真潤の声は淡々としていた。快は、モニターから目を離さずに言った。
「……逃げ道になってる。たぶん、俺の」
それだけ言って、彼は小さく笑った。笑ったのに、目が笑っていない。まおはその表情を見て、決めた。
撮影が一区切りついた昼前、まおは小箱を受け取った。ふたの「ありがとう」を親指でなぞる。空っぽなのに、心臓の音で重くなる。
「私、ちょっと行ってくる」
「どこに?」
真潤が聞く。
「快くんのところ」
まおが言うと、真潤は一瞬だけ目を細めた。止めない。その代わり、紙束から一枚だけ抜いて渡した。
「店の連絡先。万一、舜爾がまた無茶したら、これで私が止める」
「……真潤、なんでそこまで」
「自分のため。まおが泣くと、私の眠りが浅くなる」
真潤は真顔のまま言う。まおは笑って、今度はむせなかった。
まおは川沿いの道へ向かった。昼の光の下でも、あの散歩道は同じ形をしていた。いつ、どこで、誰が、何を選ぶか。今日、その答えを自分の目で確かめる。
快の本音が、エンディングロールの最後の行に隠れているなら——まおは、その空欄に、勝手に名前を書き込むんじゃなくて、本人の手で書かせたいと思った。




