第9話 取締役会
第9話 取締役会
八月。
真夏だった。
朝から強い陽射しが照りつけている。
ネクスト・ソリューションズ本社ビルのガラス壁面が眩しく光っていた。
今日は定例取締役会の日だった。
そして。
黒崎竜也の営業本部長昇進。
三浦専務の副社長就任。
その承認が行われる日でもあった。
役員専用フロアでは朝から慌ただしく人が動いている。
秘書たちが資料を運ぶ。
高級な革靴の音が廊下に響く。
会議室には冷房の涼しい空気が流れていた。
長い楕円形のテーブル。
大型モニター。
磨き上げられた木目。
窓の外には青空が広がっている。
三浦専務は満足そうだった。
濃紺の高級スーツ。
銀色のネクタイ。
何もかも予定通り。
そう信じていた。
黒崎もまた同じだった。
新調したスーツ。
磨かれた時計。
営業本部長という肩書が目前にある。
「おめでとうございます」
役員の一人が声をかける。
黒崎は余裕の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
その顔を見ていると。
三浦は少しだけ笑った。
駒としては優秀だった。
使いやすかった。
それだけのことだった。
午前十時。
取締役会が始まった。
業績報告。
来期計画。
株主対応。
予定通り進む。
やがて。
人事案件に入った。
三浦が立ち上がる。
「それでは人事案について説明いたします」
資料が配られる。
黒崎の名前。
営業本部長。
副社長。
全てが予定通りだった。
「まず営業本部長候補として――」
その時だった。
会議室の扉が開いた。
重い音が響く。
全員が振り向く。
空気が変わる。
そこに立っていたのは。
白川葵だった。
真っ白なブラウス。
黒のジャケット。
職務停止中の法務部コンプライアンス室長。
その隣には神崎誠。
ノートパソコンを抱えている。
静寂。
誰も言葉を発しない。
最初に口を開いたのは三浦だった。
「白川君」
低い声。
冷たい声。
「ここは取締役会だ」
葵は真っ直ぐ三浦を見た。
一歩も引かない。
「承知しております」
「ならば退席しなさい」
葵は首を横に振った。
「できません」
会議室がざわつく。
黒崎の顔色が変わる。
萌香の姿はない。
すでに営業部フロアで昇進発表を待っているはずだった。
「なぜだ」
三浦が聞く。
葵は答えた。
「会社を守るためです」
その言葉に。
役員たちの表情が変わる。
神崎が前へ出た。
ノートパソコンを接続する。
大型モニターが点灯する。
三浦が立ち上がる。
「止めろ」
神崎は無視した。
画面に表示されたのは。
M案件。
その文字だった。
黒崎の顔から血の気が引く。
葵は静かに言った。
「五年前から続く不正会計の証拠です」
会議室が凍りつく。
神崎が資料を映す。
循環取引。
架空契約。
売上水増し。
関連会社。
数字。
数字。
数字。
膨大な証拠。
誰も反論できない。
「嘘だ!」
黒崎が立ち上がる。
「捏造だ!」
神崎が即座に返した。
「サーバー原本です」
さらに画面が切り替わる。
削除ログ。
承認履歴。
アクセス履歴。
全て揃っている。
黒崎の額から汗が流れる。
三浦は無言だった。
葵が続ける。
「営業部では存在しない売上が計上されていました」
「二十億以上です」
役員の一人が青ざめる。
「二十億……」
神崎がさらにデータを出す。
今度は銀行口座だった。
裏金。
送金記録。
架空請求。
海外送金。
次々に映し出される。
「これがM案件の資金の流れです」
会議室の空気が重くなる。
誰も動けない。
その時だった。
神崎が再生ボタンを押した。
録音データ。
若手社員の内部通報だった。
スピーカーから声が流れる。
『数字は作れ』
黒崎の声。
『責任は私が持つ』
三浦の声。
会議室に響く。
逃げ場はない。
言い逃れもできない。
録音が終わる。
沈黙。
長い沈黙だった。
役員たちが三浦を見る。
三浦は動かない。
だが。
額に汗が浮かんでいた。
葵は最後のファイルを開いた。
父の報告書だった。
五年前。
削除された監査報告書。
画面に映し出される。
そして。
承認妨害の記録。
担当者。
三浦隆一。
名前が大きく表示された。
ざわめきが起こる。
役員たちの顔色が変わる。
一人が立ち上がった。
「専務」
声が震えている。
「これは事実ですか」
三浦は答えない。
葵は静かに言った。
「私の父は不正を告発しました」
「そして消されました」
会議室は静まり返る。
「今日まで」
「五年間」
「真実は隠されていました」
葵の声は震えていなかった。
不思議なくらい落ち着いていた。
父の言葉が胸にあったからだ。
『規則は人を守るためにある』
あの言葉が。
ずっと支えてくれた。
黒崎が突然叫んだ。
「俺だけじゃない!」
全員が振り向く。
黒崎の顔は崩れていた。
「専務の指示だった!」
「全部!」
「全部!」
その瞬間。
三浦が初めて怒鳴った。
「黙れ!」
しかし遅かった。
黒崎は完全に崩壊していた。
「俺だけじゃない!」
「俺だけじゃないんだ!」
会議室は混乱する。
役員たちが騒ぎ始める。
人事部長は顔面蒼白だった。
社長が立ち上がる。
そして。
静かに言った。
「第三者委員会を設置する」
誰も反対しなかった。
できなかった。
証拠が多すぎた。
真実が重すぎた。
三浦は椅子に座ったままだった。
窓の外を見ている。
真夏の青空。
あれほど高く見えた地位が。
今は崩れ落ちていく。
砂の城のように。
取締役会が終わった。
神崎がパソコンを閉じる。
葵は深く息を吐いた。
長かった。
本当に長かった。
神崎が小さく言う。
「終わったな」
葵は首を振る。
窓の外を見た。
夏空が広がっている。
「まだ終わってない」
神崎が少し笑う。
「そうだな」
会社の闇は暴かれた。
父の無念も。
M案件の真実も。
全て。
だが。
本当に大切なのはこれからだ。
壊すことではない。
立て直すこと。
守ること。
父が守ろうとしたものを。
葵は静かに空を見上げた。
決着の日は。
もうすぐそこまで来ていた。




